氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

相撲界は、超格差社会、人気と実力があれば年収億超え、幕下以下は傘や座布団も制限される

日本の文化に深く根ざし、多くの国民に親しまれる大相撲です。 相撲は日本の「国技」といわれていますが、大相撲の組織や力士の年収などは、あまりよく知られていないのが実情です。

国技の由来は、神話時代の「古事記」や「日本書紀」にも相撲のことが記されています。 初めは宮中などで、御前試合が行われていましたが、現在のように興行としての大相撲が確立したのは、江戸時代の中期ごろからです。

明治42年(1909年)に、両国に相撲常設館が完成しました。 晴雨に関係なく本場所が開催されるようになり、相撲人気は一般大衆のものになりました。

その常設館が翌年1月に「国技館」と命名されたことから、いつのまにか「大相撲は国技」と言われるようになって今に至ります。

現在、大相撲本場所は、1年場所開催されます。 1場所は15日間です。 15×6=90日間が力士にとっての真剣勝負でその勝ち負けの結果が、次の本場所の地位となって番付に記載されます。 相撲社会は原則縦社会で番付がすべての基本です。

昔から「番付が一枚違えば家来も同然、一段違えば虫けら同然」という言葉があり、力士は本場所で1勝するために死に物狂いのけいこを積み重ねているわけです。 そして、本場所の間に巡業などが組まれています。

大相撲にとって各地の巡業は、相撲協会の公式事業で、力士の練成、鍛錬と同時に、「地方へ国技普及を図る」ことが最大目標で、力士希望者の人材発掘に欠かせないものとなっています。

相撲界の1年間は次のようなスケジュールになっています。 1月初場所、5月夏場所、9月秋場所の3場所は、両国国技館で開催し、 3月春場所大阪府立体育会館、7月名古屋場所は、愛知県体育館、11月九州場所は福岡国際センターでそれぞれ開催されます。

本場所の合間に行われるのが巡業で、1年間の巡業日程は、だいたい毎年同じコースを回ります。 春場所後には関東、近畿、東海。 名古屋場所後には東北、北海道。 秋場所後には東海、四国、中国。 九州場所後には九州、沖縄といった具合です。

年によって異なりますが、九州巡業を終えて帰京は12月下旬ということもあり、すぐに初場所に向けて力士たちは稽古を始めなければなりません。

また、夏場所後の6月には海外に足を伸ばすことも多く、国技、相撲を披露するなど日程はぎっしり詰まっています。

プロ野球などにはかなり長いシーズンオフがありますが、力士にはまとまったオフシーズンはなく本場所後の1週間ぐらいしか“息抜きの時間”がないのが現状です。

相撲部屋はそれぞれのグループがあり、相撲の世界ではこれを一門と言います。 大きく分けて5つに分けられ、新しく相撲部屋をおこして「本家」「分家」の縁続きの関係となった部屋などです。

もともとは巡業などで、協力体制を敷いた連合体として発展していきましたが、今は役員選挙などで協力し合う関係にあります。

10人の理事の互選により、理事長が選出されていますが、理事はそれぞれの一門から送り込まれています。 相撲部屋は53ですが、力士OBのいわゆる親方は100人を超えています。

正式には年寄といい、年寄みょうせきの定数は105です。 相撲協会の規則には、力士を引退して年寄みょうせきを襲名した者によって、協会の運営に当たるとしるされています。

需要と供給のバランスから、いくら力士として実績があっても、年寄名跡を取得していなければ、相撲界から去っていかなければならないのです。

定年は65歳で、横綱は5年、大関は3年間現役めいのまま年寄としての資格が与えられています。 力士はすべて日本相撲協会の一員ですが、その前にいずれかの部屋に所属しなければなりません。

「相撲部屋」は親方である師匠と力士である弟子が、寄居をともにする完全合宿制で、団体生活が基本となっています。 原則として力士は他の部屋には移籍できません。

相撲部屋の朝は早く昭和の時代には早朝の3時、4時から稽古が始められましたが、相撲部屋が乱立したため、最近はそれぞれの部屋の力士数が少なくなったこともあって、稽古の開始が6時過ぎからのところもあるようです。

序ノ口、序二段の下位力士から始まって、関取と番付順に稽古が進みます。 どの力士も稽古の仕上げとして行うのが、ぶつかり稽古です。 上位力士から激しく稽古をつけてもらえば、それだけ地力がつき強くなっていきます。

番付下位の力士を鍛え、育てるという意味が込められている逆表現の相撲界の隠語が「かわいがる」なのです。 どこの部屋でも午前11時過ぎには稽古が終わり、今度は番付の上位順に風呂に入り、ちゃんこ鍋を囲みます。

家庭を持っている関取は自宅に帰りますが、若い力士は食事当番のちゃんこ番などの他、兄弟子たちの洗濯など雑用もあって、思うように自由時間も取れないこともあります。

力士は衣食住付きの相撲部屋で常に師匠の監督下にあり、師匠と弟子、兄弟子と弟でしという上下関係が厳格に守られています。

人間形成にも大きなウエートが置かれているのです。 大相撲はプロの格闘技集団で、仲良しクラブの集まりではありません。

規律を守るためにある程度の“愛のムチ”は必要です。 日本相撲協会に所属する力士は620人ほどで、そのうち十両以上の関取衆は70人です。

相撲の世界は完全なピラミッド型ですが、関取衆とそれ以下の力士たちではどのような格差があるのでしょうか。

日本相撲協会が運営する大相撲の収入のベースは、協会が支払う形の給料制です。

平成31年初場所から、18年ぶりに見直され現在は横綱の給与が月額300万円、年額では3600万円です。

同じく大関は月額250万円、年額では3000万円です。 関脇、小結が月額180万円、まえがしらが140万円で十両が月額110万円となります。

ボーナスはありません。 ここまでが関取と呼ばれる力士です。

年俸数億のプロ野球選手と比べれば、見劣りするように感じるかもしれませんが、力士の収入は給料だけではありません。

各場所で優勝すれば1000万円が支給されます。 白鵬関は横綱在任中だけでも、42回優勝しているので優勝賞金の合計は4億2000万円です。

本場所で活躍した力士には殊勲賞・敢闘賞・技能賞などが用意されています。

こうした賞に選ばれると、それぞれ200万円が支給されます。 このプラスアルファも大きいのです。 さらに取組ごとの懸賞金も見逃せません。

以前は1本6万2000円だった懸賞金は、令和元年の秋場所から1本7万円に増額されました。 このうち日本相撲協会が、手数料として1万円を徴収します。

残りが力士側に入るのですが、所得税の支払いのため3万円が預り金となり、土俵で力士が受け取るのは3万円です。 ちなみに令和4年の名古屋場所で懸賞金トップは照ノ富士の273本でした。

6を掛けると1638万円です。 この半分が場所中に現金で手渡されます。

人気と実力があれば、力士の年収は億を超えると言われます。 ここまで見てきた天国は、関取衆のお話です。

格差の本質はここからです。 給料がもらえるのは十両以上の関取衆だけで、それ以下の幕下、三段目、序二段、序ノ口に給料はありません。

そのかわり、ねんに6回の場所ごとに「場所手当」が支給されます。

幕下が1場所16万5000円、6を掛けて年額99万円です。 三段目は場所11万円で、年に66万円です。 序二段は8万8000円なので、年に52万8000円です。 序ノ口は7万7000円で、年に46万2000円の支給となります。

それでも部屋に属しているので衣食住の心配はありません。

浴衣は親方からもらえます。 ただ、部屋によっては、彼らのわずかな収入から管理費の名目で、数万円を徴収する場合もあり、小遣いを実家からの仕送りに頼る者も少なくありません。

違いはお金だけではなく、まげも本場所で大銀杏を結えるのは関取衆だけです。

幕下以下は髪を束ねただけのちょんまげです。 紋付の羽織袴を着用できるのも、関取衆の特権です。 序二段、序ノ口は冬でも浴衣1枚で過ごします。 雨の日の傘も違います。 関取は番傘を差せますが、幕下以下はビニール傘です。

土俵周りでは、幕内は自分のしこ名が書かれた専用の座布団ですが、十両は協会の用意した座布団、その下は座布団がなく薄い板の上です。

幕下以下の取り組みは、土俵の隅に塩はなく塩まきは行われません。

さらに幕下以下は関取衆の付け人をやらないといけません。

昨日まで関取でも、幕下に落ちたら再び付け人です。 格差はお金だけではありません。 ただこの格差には、いい思いをしたかったら強くなれというメッセージが込められているのです。

「大相撲の土俵の中には金が埋まっている」という言葉もあります。

つらい時代を乗り越えて番付が上がっていけば、いい思いができると信じて、今日も力士たちは稽古に励んでいるのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村