故ジャニー喜多川氏の性加害が、今やテレビを含む多くのメディアで問題にされています。
告発は何十年前からあったが隠され、真相は究明されるべきだし、究明されるだろうが、見逃されている問題があります。
それは、隠されてきたという権力構造が日本のテレビをつまらなくしたことです。
ジャニー喜多川氏が性加害を隠すことができたのは、マスコミがジャニーズ事務所に盾突けば、様々な面で不利益を被ると考えてきたからです。
所属事務所のタレントを回してくれなくなると、それでは視聴率を取れない、番組を作れないという状況に陥ってしまいます。
しかし、本来、番組を作るのは各局のプロデューサーであり、スタッフです。
制作スタッフが、どんなドラマをつくるかを企画し、脚本家、演出家を決め、出演者を選び、補助のスタッフを選んで作るのが番組というものです。
歌謡番組でもバラエティ番組でも同じことです。
しかし、プロデューサーよりも芸能プロダクションが強大な力を持つようになり、出演者は題材に相応しい人ではなく、芸能プロの「押し」の人となってきます。
主演でなければ、ますます芸能プロの言いなりになってしまい、場合によっては、どんなドラマをつくるかも芸能プロが決めるようになっていきます。
奇妙な配役も横行するようになり、昔は、主人公の子ども時代に主人公と全く似ていない子役が選ばれていました。
ハリウッド映画では、そんなことはありえないから、十分なオーディションができていなかったのでしょう。
配役が限定されれば、演出家も脚本家もやる気を失ってきます。自分の作品ではなく、他人の作品になるからです。
渥美清がいるから寅さんの映画『男はつらいよ』が作られたように、もちろん主演が決まって作品が決まるということもあります。
寅さん以前でも、俳優に合わせて映画の内容が決まるということは当然のことととしてあった。それは、あくまでも俳優が客を呼べるからでした。
演出家が惚れ込んだ役者のために作品を作ることもあり、これらはどれも、制作現場の思いが投影された配役でした。
ところが、芸能プロの思惑通りに「売り出したい俳優」が押し込まれるようになると、演出家や脚本家の思いなどどうでもよくなってしまうのです。
さらに芸能プロの力が増せば増すほど「押し」が強くなり、ジャニー喜多川氏の好みの俳優ばかりになってきます。
それでは、俳優の多様性を失わせるとともに、物語の多様性も狭めることになります。物語の登場人物に相応しいキャスティングができなくなるからです。
ドラマを作ることを企業活動にたとえると、株主を筆頭に、消費者、労働者、販売先、仕入先、地域社会、様々なステークホルダーを持っています。
しかし、最終的な損失は株主が負う。その株主の負託を受けて実際に会社を運営するのが、経営者で、プロデューサーであり、COO(最高執行責任者)は監督といったところでしょう。
ところが、いまのテレビ局と芸能プロの関係はこの原則を捻じ曲げ、外部の人間である芸能プロが配役をコントロールすることは、「企画部長はナカイにしろ、営業課長はキムタクにしろ」と言うようなものです。
また、自由競争の市場に向きあう株式会社に、某官庁が省益の思惑を投影するかのように「社長はこの男にしろ」と言うのと似ています。
あるいは、熾烈な世界競争を戦っているトヨタに対して、傘下の部品メーカーのデンソーが「俺たちの利益のために、この部品を使え」と強制するようなものかもしれません。
そんな横やりに従っているような企業は存続できないでしょう。
一方で、市場の力学は‟部品“を強制する一面をもっています。
たとえば、パソコンではソフトも部品もほとんど選びようがない状況に追い込まれています。
あまりにも高性能かつリーズナブルな価格なので2~3の選択肢しかないからです。電気自動車でも、蓄電池とモーターの選択が数社に決まってしまう時代になるでしょう。
しかし、それは「高性能」かつ「価格合理性」という機能的な理由で選ばれた根拠の伴う結果です。
ところが、芸能プロの場合には、役者の性能とは関係のないところで、不思議な力で横やりを入れています。
このことを擁護する意見として、思い込みの激しい演出家や脚本家に対して「世間の風がどこを吹いていて、流行の行方がどこを向いているのかを示す役割があるのだ」という主張があるかもしれません。
しかし、それこそはプロデューサーの仕事であり、決して芸能プロの仕事ではありません。
ドラマの質は、それに対して責任を負っている現場のやる気を損ね、劣化していったのではないでしょうか。
そもそも、芸能プロが配役に口を出せるようになってしまったのは、本当の適役とは何かという根拠があいまいで、誰にも分らないということがあるかもしれません。
だからこそ、本来は確固たるクオリティへの意識を持った演出家にゆだねられるべき裁量なのです。
しかし、たとえば大河ドラマの「どうする家康」を例にとると、多くの人に個々の「家康像」があるために松本潤を家康とする配役にたとえ違和感を感じたとしても視聴者は受け入れざるを得ない。
「あまりにミスキャストだ」「あまりにも大根だ」という批判は、昨今ではまず起こらないのです。
役者にとって有力者へのコネが大事ということにもなり、誰が適役に相応しいかが誰にも判断が付かないなら、出演者を選ぶ人間の力は強まり、それがセクハラに結びつく。これが、芸能界にセクハラが多い理由でしょう。
ミートゥー運動がハリウッドの大物プロデューサーをやり玉にあげることから始まったのは、そこに原因があるからですが、日本では制作の責任を伴わない芸能プロで起こっていることに歪さがあります。
芸能プロの支配が強まりプロデューサーや演出家や脚本家の力を上回るようになれば、彼らはやる気を失っていくでしょう。
こんな状態が続けば、制作の現場に裂帛の気合で演出に人生をかけるような才能が集まらなくなります。
次に起こることは、ドラマの「制作コストの高騰」と「品質の低下」で、日本のテレビドラマの品質が低下しています。
客観的な指標として、Netflixを上げてみると、 彼らがどれだけ日本で番組を作り、また購入しているかがその指標であるが、Netflixをのぞいてみれば一目瞭然で、韓国ドラマは無数にあるのだが日本初のドラマはほとんどありません。
なぜNetflixの評価に従わなければならないのかと言われるかもしれません。
しかし、そんな人ほどミシュランの星の数は世界標準の都市の美食度の指標であり、東京は世界最高の美食の街だと喜んでいるものです。
ミシュランの星を信用するなら、Netflixの評価を信用しても良いでしょう。
Netflixが配信している日本アニメは無数にあるからです。
Netflixが日本のアニメを評価し、ドラマを評価しないのは公平です。
漫画家を目指す若者はいくらでもいて、漫画家を求める会社もいくらでもあります。
しかも、漫画家を束にして押し込む事務所はありません。
運不運は常にありますが、そこはアイデアと技芸の自由市場です。
出版社は掲載するかしないかの権限を持っており、それはセクハラやパワハラには結びつきません。
シビアな読者の評価を競う場所では、そんなことをしている余裕がないからです。
オリジナルのアニメも多く、漫画がアニメになることが多いのです。
質の高い漫画があるから質の高いアニメを作ることができ、漫画産業は、才能に高い報酬を払うこともできるのです。
韓国映画やドラマと言えば、同じような顔の美人が活躍するものだと思っていたら、最近は個性的で魅力的な女優が登場する場合が多く、これはNetflixの影響です。
もともと韓国の演出家もそうしたかったのかもしれませんが、韓国の保守的なスポンサーの意向でできなかったのかもしれません。
Netflixという新しいスポンサー兼プロデューサーが現われて、可能になったのでしょう。
ドラマ制作は、才能の自由競争の場にならなければならず、質に対する責任体制が明確にならなければなりません。
性加害を隠すことができた権力構造こそが、日本のドラマの質を低めていたと考えるべきでしょう。