氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

成績上は秀才でも、大人になっていない人が増えている

大人になるというのはどのような意味があるのでしょうか。これは特に日本語のニュアンスの問題でもあるが、内容については世界的に普遍的なテーマです。

「大人の対応」などに見られるように、理不尽な扱いを受けても我慢するとか、悪事を見ても見ないふりをするというような態度があります。

上司や目上の人たちの意向に背かないようにすることもあります。

青春ドラマで「いつまでも夢なんか見てるなよ。そろそろ大人になれよ」といって、夢を諦めたり改心させようとする場面でも使われます。

「所詮〇〇はできるわけない」とか、ただ単にネガティブな現実主義に対して言うこともあります。

「大人は信じられない」と子供が言うのは、このような大人に対して、でしょう。

 

 

一方で、本当は自分で欲しいのだけれど、人に譲ったり、利他的な行為を言うこともあります。

これは損をしても我慢するのが、大人ということで、最初の方の我慢する行為の裏返しです。

さて、これに対して、前向きな大人がいて、良識があったり、責任感があったり、善良で、平等な意識を持ち、自己主張をして、社会のために行動している人がいたとして、でも、その人のことを「大人だ」とは言いません。

もっと別の価値観で評価されるはずなので、本当に言いたかったことは「大人」ではなかったのです。

「社会の問題を自分たちのこととして考えよう」ということを意図していました。 高校の時、大学の時はもっと社会のためを考えていた人が、やがて大人になり「家族のため」「生活のため」に身をすり減らすように変わっていくのです。

そうであっても、「社会のため」を両立させることは可能です。

大人であるなら・・ そもそも論で言うと、大人であれ子供であれ、どのような主義主張を持っても構わないわけで、意見の違いは当然あります。

楽しければいいというのは、それは生き方であり、その人の自由です。

だから子供っぽいとは思っても、矯正的に止めさせることはできません。

一方で、それは幼稚なことだ、やめるべきだと批判する自由もあります。

日本人は甘ちゃんなのに、いささか恥ずかしいほどの利己主義者です。

 

 

最近の日本の様子に危機を感じ、将来を憂う人はあちこちにいますが、時々その人たちの議論を聞いていると、不思議な感じに囚われることがあります。

省庁の編成を変えることや、金融破綻を乗り切ることはもちろん差し当たり大切なことに間違いないですが、どうしてこういう社会になったか、という基本の部分については、あまり考えないらしく、議論にも出ません。

その理由だと思っているものは、どんなふうにも表現できます。

日本人が本を読まなくなったから、でもいいし、哲学がなくなったから、と言っても差し支えありません。

親と住まなくなったから老病死がひとごとになったのもその理由かもしれないし、あるいは道徳教育を切り捨てたからかもしれません。

日本人は何と貧困や飢えを知らないのだろうと思います。

しかし何よりも、日本人は貧しい人は必ずいい人だと思うような甘ちゃんで、そのくせ、いささか恥ずかしいほどの利己主義者である、と言ってもいいかと思います。

日本にはこれだけの有能な人物がいながら、どうしてもっと筋の通った濃厚で意識的な悪も善もできないのかと不思議に思い続けていましたが、それは魂の教育を怠ったからだとしか思えません。

しかし今、子供たちに本を読ませようという運動も起きませんし、道徳教育を始めようという機運もありません。

今度の新しい公務員の倫理規定のようなものの内容を、まだ正確には知らないのかもしれませんが、倫理規定を作らねばならないというのは、大人に幼稚園の児童用のお行儀を教えているようなもので、ほんとうは恥ずかしいはずでしょう。

もし一人一人が、公務員としてのあるべき姿をわかっていたら、そんな規則はなくても済んだはずなのですが、相変わらず公務員は成績上は秀才でも、大人になっていないので、常識的な判断力も哲学も持てず、更に厳密な規則を作る必要が出てきたのです。

 

 

これだけの大きな揺り返しが来ても、銀行の債務や省庁の再編成をどうするか、という話ばかり盛んなのは、シワの出た顔にどういう化粧品を使ったら年を誤魔化せるかという、おしろいを更に厚塗りする話のような気がします。

健康状態をよくして肌の張りを取り戻すか、どうしてもだめなら、せめて美容整形の手術を受けるぐらいの勇気はいるでしょう。

日本人は、とうの昔に人生を愛する心をなくしているような気がします。

その人生とは、当然のことながら紛れもない実人生で、寒暖の差もあれば別離の悲しみも病苦や貧困の苦悩もあるものであるはずなのですが、多くの人たちには不幸は「バーチャル・リアリティ」(仮想現実)で楽しむものになり、事実存在感が希薄です。

インドが核実験をした後、日本の新聞は、ガンジーの無抵抗主義を見習え、と書きました。

来世を信じている人なら、あるいは殺されてもいいかもしれません。

来世には、仏か神がいて、その行為を嘉(よみ)するから、現世では必ずしも報いられなくていいのです。

しかし日本人の多くは知的だから、自分は無神論者だと言います。

死ねばゴミになるのだと言う人が多いのです。 とすれば、この世がすべてです。

そのたった一度の生涯を、ガンジーは無抵抗だったから殺されてしまったのです。

「あんたは殺されても平和主義者でいられるのかね」とインド人は言うでしょう。

「殺されたくないから、実験をしたんだ。あんたは他人にガンジーのように死ねと言うのかね」と言う声も聞こえそうです。

日本人は、「背後にあるもの」も見えず、「底にあるはずのもの」も感じなくなっています。

漢方薬を使ったり運動をしたりして体質を変えることなど全く考えずに、とりあえず今苦しんでいる熱や下痢を抑えることだけを望んでいます。

そういうやり方をしていると、バブルの付けが終わっても、制度を替えてみても、幼稚園の子供に対するような倫理規定を作ってみても、また次の難関が来たら、それを受けきれずに別の堕落の仕方をするでしょう。

もっとも堕落のない社会などないのだ、と言うこともできます。

人は常に新しい堕落の種を見つけるのでから退屈しなくて済んでいます。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村