氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

日本に蔓延する「孤独推奨ビジネス」

貧困、虐待、いじめ、引きこもり、依存症、カルトへの入信、犯罪など社会問題の共通点は背景に「孤独」があることです。

日本では孤独を“美徳”とする風潮が非常に根強いです。しかし孤独はやがて怒りや絶望に変わり、さらに社会を震撼させる事件を誘発するケースも今後増えるでしょう。

うつ病や不安、貧困、暴力や依存症など、人の抱える多くの課題の根源は「孤独」です。

孤独な人が必ずしもこうした問題を抱えているわけではありませんが、問題を抱える人に共通するのは「孤独」です。

 

 

人や社会と上手につながれないことによる不安感や寂しさ、絶望感は人を心身ともに崖っぷちへと追い詰められます。  

「孤独」は「心の飢餓」と言われ、お腹が空いたという飢餓感は「何か食べなさい」、のどが渇いたという渇望感は「何か飲みなさい」という脳からのサインであるのと同様、「孤独感」は「人と繋がりなさい」という脳からの指令であると考えられています。

このため、そのサインを無視して、「我慢」しようとすれば、そのひずみが心身の問題として現れます。  

孤独は一日たばこ15本吸うこと、アルコール依存症であることの2倍の健康リスクがあり、早死にリスクが50%上がるようです。

こうした科学的研究から、世界では「孤独は現代の伝染病」として、その危険性に警鐘が鳴らされてきました。 

そうした世界の趨勢とは逆行するように、日本では、「孤独」を美徳とする風潮が非常に根強いのです。

書店に行けば、「孤独の力」「極上の孤独」「孤独をたのしむ力」など「孤独万歳本」ばかりが無数に並び、全力で「孤独」を肯定しています。

孤独に耐えられる人が一流で、耐えられない人は三流だと言わんばかりの論調です。

「孤独」と言う言葉に2面性があり、英語では、一人でポジティブな時間を過ごすSolitudeと寂しく不安なlonelinessが区別されていますが、日本語では、双方を孤独と呼んでおり、そこが混同されやすいのです。

もう一つは、同調圧力の強い日本では群れないことへの憧憬が強く、孤独=自立・独立・孤高である、と考えられやすいことが挙げられます。  

本来、孤独の「孤」は「みなしご」を意味し、孤児のように頼る人がいなく、寂しい内観を指す言葉です。

 

 

一人で楽しいsolitudeの「個独」とは違いますし、「自立・独立」とも「ソロ」「お一人様」とも異なります。

家族がいても「孤独」な人はいますし、単身でも「孤独」を感じない人もいるでしょう。

虐待やいじめを受ける子供、宗教二世、引きこもり、貧困にあえぐ人たち、そんな絶望的な孤独があふれるこの日本で、「人に頼るな」「一人で強く生きていけ」という誤解をさせる孤独ビジネスは実に罪深いです。

孤独ビジネスといえば、カルト教団など、人の「孤独感」につけこみ、所属意識や連帯感を提供することで、時間やカネを収奪する「孤独救済ビジネス」も存在します。

まさに、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)などはこの典型でしょう。自民党日本維新の会が主張する新自由主義に相容れるわけです。自己責任論の強い新自由主義により貧富の差が拡大することで、孤独が生み出され、入信者が多くなるということです。

彼らは、生きづらさや孤独感にさいなまれる人々に、人とつながる居場所を与え、取り込んでいきます。  

人の「孤独感」は人間の生死にかかわる根源的で激烈な感情です。都市化、核家族化などにより、現代社会において、それに苦しむ人も爆増しているだけに、「推奨派」も「救済派」もカネになるというわけです。  

「人は一人で強く生きていくもの」という「孤独推奨ビジネス」の論法は、翻ってみれば、「自分の身は自分で守れ」という自己責任論と通じます。

実際に、孤独は自己責任と考える人の割合は、日本では44%に上り、アメリカの23%、イギリスの11%と比べ、圧倒的に高いのです(米カイザー財団調べ)。  

お腹が空いた人に「飢えは体にいい」、金のない人に「金がなくても生きていける」と説くのにも似た孤独推奨ビジネスの論法では、孤独は自己責任ですので、他人に手を差し伸べる必要がありません。  

つながりの大切さを説くよりも先に、人に頼ることは恥、つるむことは悪、仲間も友達もいらない、という主張はディストピア社会を助長することにはなります。

 

 

もちろん、ひと時の孤独に耐える強さは不可欠です。交遊は広ければいいものでもありませんし、同調圧力に負けて嫌な人間関係を続ける必要はありません。

しがらみに縛られることのない「自立した生き方」は賞賛されるべきであっても、孤独の行き過ぎた礼賛・美化は、孤独な人が、その気持ちを抑え込み、声を上げにくくなる、という深刻な副作用を生みます。

不安で寂しい思いを押し殺し、蓋をして、日本人お得意の「我慢」でやり過ごそう、と号令をかける孤独推奨ビジネスですが、残念ながら、「孤独の身を切る辛さ」はそうやって、抑え込めるものではありません。  

耐えきれなくなった人が「孤独救済ビジネス」に陥るパターンもありますし、やがて、怒りに変わり、絶望に変わり、社会を震撼させるような暴発へと発展するケースも今後はどんどんと増えてくるでしょう。

誰もが自分を守ることだけに夢中になった「一人要塞」だらけの未来は決して生きやすいものではないはずです。

自分たちのことばかりに目を向けるのではなく、他者を癒すことで、孤独は癒されるものです。

孤独を真に癒すのは、「孤独でいいんだ」というマッチョな精神論ではなく、善意ある他者の存在です。

誰もが誰かに手を差し伸べ、誰かの孤独を癒す存在になれます。  

孤独は他の誰かの問題ではなく、誰にでも、いつでも訪れる可能性のある「全国民」の課題です。

「いざとなれば、誰かが支えてくれる」「一人であってもひとりぼっちにはならない」。共に支えあう社会づくりに向けて、真剣に考えるべき時が来ています。

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