日本人の多くは、学校や職場でも周囲と同じでありたいと願い、同じように振る舞おうとします。
学校はサラリーマン養成所です。偏差値のいい学校に入ることが目的で、勉強しているのはクイズ番組に出てくるような問題です。社会に出ても何の役にも立ちません。
周りがいい学校、いい会社に入ることを美徳化しているため、知らないうちに自分が洗脳されているのです。
頭が良くていい大学に入っても、残念ながらサラリーマンという雇われ者ではお金持ちにはなれません。
投資よりも貯金という刷り込みを小さい時に親から学んでいるため、社会人になっても貯蓄しかしない人も多いのです。
日本の教育はサラリーマンを量産するためのもので、多様性を尊重せず、人生の選択肢を狭めているというのも悲しい現実です。日本が経済成長せず、衰退しているのも教育体制そのものに問題がありそうです。
リスクをとって自分で起業して、会社を上場させようと考えている若い人はほとんどいないと思います。
自分だけが違うというのは、周囲から浮くのではないかという恐怖を感じるからです。
集団の心理での仲間外れにされないようにみんなと同じでありたいと思い、同じであることで一体感を得ようとするのです。
だからそういう人は、自分と他人の違いを認められません。「同じ」であることを確認して安心したいからです。
そしてそういう「ひとりひとりは違っていいんだ」と思えない発想を、周囲にも押し付けるようになります。これが同調圧力です。
それはお互いの違いを認めないという発想であり、だから自分の考えとは異なる人を見つけるとイライラし、協調性がないなどと因縁をつけるわけです。
彼らは周囲に同調することが一番大事です。すると自分の価値観よりも社会の価値観を優先しようとします。
そしてそれは「べき」という自分を縛ることになります。そんな社会からの刷り込みや常識という固定観念が強い人は、多くの「べき」がこだわりとなり、それとは違う言動や生き方を容認できなくなります。
つまり孤独が怖いという人は、心のどこかにマイノリティを社会の片隅に追いやろうという気持ちがあるということです。
こういう人がいわゆる差別やいじめを生み出すのです。
自分の感性を押し付ける人も差別意識を内包しています。
「え、まだ〇〇やってないの?」「まだ〇〇なの?」みたいな人は、それを知っている・やっていることが、自分の評価であると信じたいのです。
他人には他人の考えがあることを認める度量がないのです。
そもそも人と違うからといって、相手が悪いわけではなく、自分が悪いわけでもありません。
ただ価値観が違う、生き方が違うということ。それはつまり、住む世界が違うということです。
だから本来は別々の世界で生きればいいのです。
違いがあったとしても、それはお互いに礼儀正しく認めて、ぶつからないようすれ違えばいいだけなのです。
それに、よくよく考えてみると、協調性や社会性がないから社会のひずみに気がつき疑問が湧くわけです。
協調性がないから、周囲が何を言おうと自分の考えを押し通して社会を変革する推進力があるわけです。
そもそも「社会性がある」とは、自分を周囲に合わせて集団の中で上手にわたっていく能力のことであり、社会性が高ければ高いほど、周囲が驚くような突拍子もないことはできないでしょう。
つまりお金を稼げるイノベーティブな人材になりたいという人には、まわりに合わせたり、社会性はかえって邪魔なのかもしれません。