氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

修士号や博士号を取った人は日本では出世できない

 

 

日本的経営は「学歴抑制効果」が働いています。 本来なら高学歴といえば、博士号や修士号を取得していることです。

欧米の場合、特に文系だと修士号や博士号を取得して経営者を目指す人には必要な学位を求めます。

そこで培われた知識やスキルが、仕事に必要だと考えられているからです。東大卒や京大卒という学校歴、合格歴が求められることはありません。

一方で、日本の終身雇用、年功序列の場合、まずはムラ社会のメンバーに入ることが重要です。

経営陣を目指す人も、みんな現場のオペレーショナルな業務から入って、少しずつステップアップしていくしか道がありません。

本来なら高学歴といえば、博士号や修士号を取得していることです。日本の場合、特に文系だと修士号や博士号を取得していると、逆に出世できなくなるケースすらあります。

ムラ社会だと修士号や博士号を持っていると「異端」に位置づけられて、「本流」から外されてしまうわけです。 

日本企業で求められるのは潜在力を担保する有名大学の合格歴になるわけです。余計な知的な能力は必要ありません。ムラの中で必要な知識や掟は、ムラに入ってから叩き込んでやるというわけです。

だから今のムラから別のムラに移る転職も難しく、会社が傾くと従業員は総玉砕に向かってしまうのです。

産業の構造が比較的固定的で、オペレーションの優劣で業績の優劣が決まる昭和の時代はそれで良かったのです。

極論を言えば、一つの工場の中で、ずっとその仕事のオペレーションを高度化して合理化していくことが企業全体の競争力に直結していたわけです。一本のネジの完成度を高め、作業工程を一つずつ見直して合理化することが大切だったのです。

産業や社会がダイナミックに変化するようになり、特定の業務の中で作られるノウハウはすぐ陳腐化します。日本の歴史を振り返ると、様々な組織の中で似たようなことが起こっています。

そういう仕組みを日本人は作りやすいのです。

大学でいえば、典型的に就職に強かったのは体育会です。早稲田、慶応に入れるだけの能力があり、その上、「ラグビー部です」「野球部です」と言えば、日本的経営の企業であればどこでも内定がもらえるわけです。

要するに地頭いい、体力があり、上下の秩序にちゃんと従って行動できることです。オペレーショナルな業務を磨く、ムラ社会の一員としては最高な人材ということになるわけです。

 

 

有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列ムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけです。そういう人材だけで構成されている組織は極めて危険です。

インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化しました。オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなったのです。

残念ながら、日本社会の構造がこうした変化に対応できない組織を生み出したといえるでしょう。自分が積み上げてきた個別的な体験だけで組織のかじ取りをしようとすると失敗します。

少なくとも自分の経験の中で、普遍的に通用するものと通用しないものぐらいは仕分けできないと経営者失格です。

つまり、物事を一般化、抽象化して普遍の原理原則から演繹する思考法が、訓練されてないと、変化に対応できません。

答えを丸暗記して対応できる試験に合格した、そのアプローチだけでは通用しなくなっています。

一般原理原則から、新しく発生した事象を論理的に考え、結論を導きだし、いろいろな物事を組み合わせて創造する思考訓練をきちんとできないといけません。

そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです。

変化の時代に対応するために思考力を評価して、エリートを選抜しようとすると、それに見合った学力を付けなければいけません。

これが、年功序列の仕組みと矛盾するわけです。これまでの日本型経営のモデルでは、みんな一緒に横一線で競争する建前になっています。

正社員は、組織内の階級的格差なしで競争して、ちょっとした差でだんだん選抜をしていくのが基本です。これが、昭和の時代では組織全体のモチベーション維持にもうまく作用していました。

こうした組織ではアメリカの大学院で学んだことなんて、すべて捨てろ、忘れろ、そんなもの現場では役にも立たん、と経営陣から言われるわけです。

それで組織の掟に従え、徹夜で酒に付き合えと、権力者の同調圧力に屈しないと日本の社会では本当に出世できないわけです。

 

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