学校は、言われたことをきちんとする能力に報いる場所です。
学力と知的能力の相関関係は必ずしも高くありません。学校の成績は、むしろ自己規律、真面目さ、従順さを示す指標です。
良い成績を取るには、深く理解することより、教師が求める答えを出すことのほうが大事という考えです。
また、すべての科目で良い点を取ることに報いる学校のカリキュラムは、学生の専門的知識を評価しません。
これは特に日本やアジアの教育様式に見られますが、先生が一方的にしゃべって、学生はただそれを聞くだけという授業がほとんどです。
講義形式は大人数に対してまとめて知識を伝授するには効率的な一方、それを受け取る側は単に録音機のようなもので、思考停止していると言っても過言ではありません。
疑問を持っても立ち止まることは許されず、もっと興味を持っても深堀りすることも許されず、つまらなくても抜け出すことはできず、淡々と授業は続けられます。まだ集中力があっても、終了時間が来れば授業は打ち切られます。
また、教育カリキュラム自体の問題もあります。学習指導要領は政府の人間が作っていますが、これ以外にも多くの教育サービスは、すべて雇われた経験しかない人たちによって作られています。彼らは実業をやった経験がない。それは学校の先生も同じです。
だから行政や学校(特に大学)が推奨・主催する「キャリア教育」は、基本的には「就職教育」です。
大学で進路指導をする職員も雇用されたことしかないから、「就職」という道しか示せないのです。
世の中には3万種類を超える職業がありますが、学校教育の中だけで教わるキャリア教育は非常に狭く、特に日本の学校は、「従業員量産システム」の域を出ていないと言えます。
実社会では学校で成績の良かった人たちは仕事でも私生活でも全てそつなくこなしますが、一つの領域に全身全霊で打ち込まないので、特定分野で抜きんでることは難しいです。
社会に出れば、ほとんどの人は、特定分野でのスキルが高く評価され、ほかの分野での能力はあまり問われないという仕事をします。
皮肉なことに、純粋に学ぶことが好きな学生は学校で苦労するという事実があります。その分野に精通したい人には、学校というシステムは息が詰まるわけです。
その点、優等生たちは徹底的に実用本位でただ規則に従い、専門的知識や深い理解よりひたすら良い成績を取ることを重んじます。
学校には明確なルールがありますが、人生となるとそうでもないです。定められた道筋がない社会に出ると、優等生たちは勢いを失い、学校での成績とその後の人生での成功は関係がないことが裏づけられています。
頭の良いエリートは、平均以上に無難に生きていく能力はありますが、不確実性の高い社会では無能でリスクを取ることができず、チャレンジもしないことから億万長者になるチャンスも逃していることになるのです。