コロナ禍のせいで、日本人は移動しなくなったといわれています。
そう言われたとき、当然だろうと思う人が多いかもしれません。
しかし、じつは、日本人はコロナ禍以前から移動しなくなっていることをご存知でしょうか。
日本人が『移動』しなくなっているのはナゼでしょうか?
地方で不気味な『格差』が拡大中なのです。
地方を理想化する声は、突然つぶやかれ始めたわけではありません。たとえば戦前の農本主義や、1970年代の第三次全国総合開発計画(三全総)では地方は都会人が尊重し、立ち返るべき魂の故郷として称えられました。
ただし現在の賛美の風潮で興味深いのは、たんに地方が理念的に持ち上げられているわけではないことです。
集団的な「移動」の変容というかたちで、地方にとどまる人が実際に増えていることこそむしろ注目されます。
東京、中京、大阪の三大都市圏に移動した人口、またそれを総人口で割った移動率をみれば、移動者、またそれに輪をかけ移動率が、1970年に最高値を記録して以降、ほぼ一貫して減少傾向にあることが確認されます。
直近では2020年に68万人と最盛期の158万人の半分以下になっていますが、これもコロナ禍の影響というより、あくまで大きなトレンドに従うものであることがわかります。
三大都市圏へ向かう人びとのこうした減少を引き起こしたのは、ひとつには少子高齢化です。
日本では10代後半から20代の若者の移動率が高いのです。
そのため少子化によって若者が減れば、移動者がそれだけ減少することも当然です。
ただしそのせいだけで、移動が少なくなっているわけではありません。
5年以内に他県に移動した人びとは若者にかぎっても減少トレンドにあることがわかります。
とくに15歳から19歳の若者の移動率の減少は目立ち、1970年の0.41倍と、全体(0.51倍)と較べても落ち込みが激しいのです。
1970年からずっと減少傾向にあるというのは、意外かもしれません。
具体的には、移動が減るとはどういうことなのでしょうか?
最大の問題は、移動の減少が均一にではなく、格差を伴い生じている可能性であるという指摘がされています。
『移動できる者』と『できない者』の二極化が進んでいるのです。
かならずしも地方から出る必要がなくなるなかで、都会に向かう者は学歴や資産、あるいは自分自身に対するある種無謀な自信を持った特殊な者に限られているのです。
問題は、そのせいで地方社会の風通しが悪くなっていることです。
学歴に優れ、資産を持つ『社会的な強者』だけが抜けていく地方になお留まる人びとには、これまで以上に地元の人間関係やしきたりに従順であることが求められます。
結果として、地方では『地域カースト』とでも呼べるような上下関係が目立つようになっています。
移動の機会の減少は、それまでの人間関係を変え、ちがう自分になる可能性を奪うわけです。
その結果、親の地位や子どものころからの関係がより重視される社会がつくられているのです。
そのはてに二極化した光景が、地方社会でよくみられるようになっています。
飲み屋や「まちづくり」の場などで大きな顔をするのはいつも一定の集団──少し前には「ヤンキーの虎」などと呼ばれもてはやされた──で、そうではない人はひっそりと地元で暮らさなければならないという状況さえみられるようになっているのです。
これを読む人は、移動をしている人でしょうか。
地方に住む人であれば、「地域カースト」といった人間関係に心当たりはあるでしょうか。
移動が減っている現実を直視し、日本社会の未来を考える契機としたいものです。