現代は医療技術が発達して、病気になったときの治療の選択肢が昭和の時代と比べて格段に増えました。
日本は国民皆保険制度があるおかげで、国民全員が安い医療費で高度な医療を受けられるようになっています。患者さん自身が国内にある医療機関の中から自由に選んで受診できるフリーアクセスの制度もあります。
しかし、これらの制度がいつまで続くかはわかりません。今のように誰もが自由に病院にかかり、治療を選べる状態は長く続かないかもしれません。
なぜなら、国の医療費は年々増加しているからです。
新型コロナの感染拡大に伴う受診控えがあり、2020年は対前年比で1兆円超の減少となりましたが、長期的視点で見れば増加傾向にあります。
2022年の医療費は46兆円となり、過去最高を更新しています。医療の進歩によって新薬や新しい医療機器、医療技術が登場して診療報酬も増額されています。
団塊の世代が全員75歳以上となる2025年以降は、少子高齢化による人手不足と相まってますます医療費が膨らむでしょう。
高額医療製品は増え、それを使う人が増えているのですから、医療費は増える一方になります。現在の公的医療制度を維持し続けることがかなり難しくなっているのは疑いようがありません。
そうなると、次に起こるのが個人の医療費負担の増額です。保険適用される病気も少しずつ限定されていくかもしれません。治療しなければ患者さんが死に至る確率が極めて高い「致死的な病気」については国が面倒を見るが、そうでない病気については国は面倒を見ないという傾向が強まっていくのではないかと思われます。
「致死的な病気」として想定されるのは、たとえば心筋梗塞、脳梗塞、脳出血、がん、結核などです。逆に「非致死的な病気」として考えられるのは花粉症、皮膚炎、虫歯、骨折、軽度の心不全や狭心症などです。保険適用から外される未来もないわけではありません。
国は保険適用される病気が減らないよう努力を続けてはいますが、いつかは減らさなければ国家財政が立ち行かなくなるのではと思います。そのとき、非致死的な病気を治療するのは自己負担になります。
非致死的な病気の治療が自己負担になった未来では、致死的な病気の治療は侵襲性(身体に傷害を与える可能性)や予後(病気の経過についての医学的な見通し、あるいは余命)の良し悪しによってランク付けされるでしょう。
ランクの高いほうから「特上」「並」と2種類あった場合、お金のある人は「特上」を選べますが、そうでない人は「並」にせざるをえません。
「特上」の人は身体的負担の軽い最新の手術を受けることができて、入院日数は少なく、退院後の回復も早く、いち早く日常生活に戻れます。一方、「並」の人は従来と同じで、退院までにある程度の時間を要する開腹手術になります。
身体的負担が大きいためリハビリもしなければならず、退院後の回復にも「特上」より時間がかかります。
「特上」の人も「並」の人も、手術は受けて永らえることに変わりはありません。しかし、その後の生活の質に差が出てしまいます。このように、個人の資産の有無が長生きの質を左右する未来がやってきてしまうかもしれません。
人間拡張の技術を使って外出が困難な人たちがカフェで働いている事例があるように、人間拡張技術があれば、身体能力が落ちてもスポーツをしたり、海外旅行に行ったり、健康だったときに食べていたステーキを味わったりできるかもしれません。
実際、コロナ禍で修学旅行に行けなかった高校生が旅行代理店のVRサービスを使って旅行をした事例があります。3Dプリンターで本物の肉に近い食感を出せる技術を用いて、歯が悪くなったり嚥下に問題があったりする高齢者にリアルな食事をしてもらう事業を展開している企業もあります。
人間拡張技術がさらに進化すれば、人間拡張専用のデバイスが登場して、現在のスマートフォンのように私たちの日常に欠かせないものになるかもしれません。
テクノロジーが老いによってできなくなったことをカバーすれば、もう老化はハンディではありません。現在、「障害」と呼ばれている状態が、障害とはいえなくなる未来が来ます。若さを失い、健康を失ったとしても幸せを感じられるのなら、身体の健康が人生の重要事項とみなされなくなるでしょう。
とはいえ、この話を自分に当てはめてみると、また違った風景が見えてくるのではないか、と私は考えています。
テクノロジーが進化してVRの質やサービスが今以上に素晴らしいものになったとしても、100歳の自分がそれを使って旅行したいと思うかどうかは別ということです。
高齢になって若いころのようにリアルで海外旅行に行くことが難しくなったとき、最新テクノロジーを使って海外旅行の体験をしたいですか?
「できるのならぜひ体験してみたい」という人もいれば、「人が使うのは一向に構わないけれども、自分が使うのは嫌」という人もいると思います。前者の場合は長生きして人生100年になっても、お金がある限り楽しめるでしょう。
では、後者の場合は何に楽しみを見出して生きていったらいいのでしょうか。 長生きはできたけれども、延びた老後の期間を使って特段やりたいことがない。やりたいことがあっても、それを実現する健康もないし、お金もない。命だけが長引いている──。
せっかく長生きができるのですから、そんな「生きてるだけ難民」のような状況は避けたいものです。何より、あなた自身が生きていておもしろくないはずです。ではどうすればいいか。
100歳まで生きることを前提として受け入れ、計画的に老いていくことを目指す生き方です。10年単位の終活を自分でデザインして、滞りなく実行に移していく。そこに喜びや楽しみを見出すのです。
「計画的老い」では、自分の健康状態や持病を踏まえて、今後どんなふうに老いていくかをイメージします。「マイQOL」の優先順位を把握して、どの時点で何をしたほうがいいか、そのためにはいくら必要かを考えて周到に準備を進めます。
生きているうちにしたいこと、達成したいこと、行ってみたい場所があれば、それを実現するためのダンドリについても考えます。
すべての希望をかなえることはできないでしょうから、優先順位が高いものを実現するために、低い順位のものをある程度我慢することは必要になります。
でも、考えたことを全然できなかったと最期に嘆くよりも、優先順位が上のものだけでも実現できたなら死ぬときの後悔は少ないはずです。自分自身で最期の瞬間に至るまでのルートを考え、現実との折り合いをつけながら一歩一歩、歩いていく。そこに喜びと楽しみを見出しましょう。
仕事や勉強を通してみなさんもおわかりかと思いますが、自分で決めた計画をきっちりこなすことができたときの1日の終わりのすがすがしさは格別です。それと同じ境地に至ることを目指して、「計画的に老いていく」のです。
ただ命だけ長くなった「生きてるだけ難民」より、「計画的老い」を目指しましょう。それが人生100年時代の後悔しない死に方ではないでしょうか。