氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

“エリート国家公務員時代”の終焉

かつては定年退職まで勤め上げるのが常だった公務員、とりわけ国家公務員総合職の離職が目立つ昨今。その原因の一端は「世間からのバッシング」にあるといいます。

公務員、とりわけエリート官僚は出世の階段を上るまで辞めないのが常識でした。 ところが近年、若手を中心に国家公務員総合職の流出が目立ちます。

人事院の発表によると、採用後10年未満で退職した職員は、2013年から17年までは年間100人以下にとどまっていましたが、2018年以降は100人を超え、2020年には109人と7年前に比べ4割以上増加しています。

また総合職の応募者は減少傾向にあり、2022年度は過去2番目に少なく、10年前の3分の2を下回る水準です。応募者の減少は官僚の質低下、さらには行政機能の低下にもつながるだけに見過ごせない現象です。

応募者が減っている原因としてしばしば指摘されるのは、国会対応などによる長時間の残業や外資系金融機関、コンサルタント会社などに比べて低い年収など、主に労働条件や待遇の面です。

しかし長時間労働にしても、民間の一流企業との待遇格差にしてもいまに始まったことではなく、打ち解けた関係のなかで彼らの本音に耳を傾けると、別の理由が浮かび上ががります。

かつて、「日本は優秀な官僚で持っている」とか「政治は二流だが官僚は一流だ」などといわれてきました。それだけ官僚は大きな権限を握っており、世間から尊崇の目で見られてきました。

また幹部を退いたあとは外郭団体や大企業のトップに天下りするなど、いわば「終身エリート」としてのキャリアが約束されていました。

ところが1999年に公布された地方分権一括法の下では、官僚が地方自治体に対して権力を誇示することもできなくなり、2007年の国家公務員法改正によって天下りも大きく制限されました。

さらに民主党政権のもとでいわゆる「政治主導」が進められて以来、官僚が政策の立案や事業の企画など表舞台に立つ機会が減りました。要するにエリートとして活躍し、世間から尊敬される環境が崩れてきたのです。

欲求階層説で知られる心理学者のマズローは、承認欲求をつぎの二つに分類しています。

一つは「強さ、業績、妥当性、熟練、資格、世の中に対して示す自信、独立と自由に対する欲望」です。もう一つは「他者から受ける尊敬とか尊重と定義できるいわゆる評判とか名声、地位、他者に対する優勢、他者からの関心や注意、自分の重要度、あるいは他者からの理解に対する欲望」です。

国家公務員の総合職として採用されるような人たちの多くは、子どものころから受験戦争を勝ち抜き、周囲から優等生として見られてきました。

就職に際しては、その延長で進路を決め、当然、大学の先輩から現場の情報も入ってくるため活躍して尊敬される職業として公務員の魅力が薄れたら、実力次第で若くても活躍して存在感を示すことができる外資系金融機関や、コンサルタント会社などに進もうとする者が増えます。

心理学者のF・ハーズバーグは職務満足に関係する要因を二種類に分け、満足に関係する要因を「動機づけ要因」、不満足に関係する要因を「衛生要因」と名づけました。

この分類によると、給与や職場の労働環境は衛生要因であり、「達成」や「承認」は動機づけ要因です。

したがって優れた人材を引きつけ、やる気を引き出すには、仕事を通して達成感を味わえたり、社会的に認められたりすることが大切であり、給与水準や労働環境を改善するだけでは不十分なのです。

さらに注目すべき点は、公務員に対する世間の目が厳しくなり、「公務員バッシング」が広がってきたことです。

不況期には安定した地位や相対的に恵まれた公務員の給与・ボーナスがマスコミによってやり玉にあげられます。

一握りの公務員が起こした不祥事や問題行動の情報が、マスコミやSNSを通じて拡散される。大多数の国民・市民の現状を肯定する声、好意的な声が、一部から発せられるネガティブで大きな声にかき消されてしまいます。

公務員のモチベーションは正義感や善意、そして承認欲求、社会的承認というデリケートで壊れやすい要素によって支えられています。

それだけに、公務員バッシングの広がりが、公務員と国民・市民との関係を質的に変えるきっかけになりかねません。

〈奉仕に対する感謝〉〈優秀さと矜持に対する尊敬〉という信頼に基づく善意の関係が崩壊したとき、〈義務に対する権利〉〈怠慢に対する監視〉といった相互不信に基づく悪意の入り交じった関係へ移行します。

それがいかに危険な要素をはらんでいるかです。

消防士の仕事はしばしば身の危険をともなう。ときには、あえてリスクを負わなければならないケースもあります。

そのようなとき、たまに頭をよぎるのはつぎのような記憶だといいます。

「公用車で弁当を買いに行っていた」「仕事中に菓子を食べていた」という類の些細なことについても市民から役所に通報が入る場合があります。

すると上司から型どおりの注意を受け、火災現場でギリギリの判断が迫られたとき、クレームを受けた経験が脳裏に浮かび、火のなかに飛び込むのを躊躇することがあるというのです。

もしかすると、その陰で人命が左右されているかもしれない。相互不信に基づく関係の行き着く先は、いわゆる官僚主義です。

市民に対しては形式的な手続きを求める一方、自らは最低限の仕事しかしないといった姿勢がそれです。規則を盾に身を守る官僚主義は、公務員に対するバッシングや厳しい要求から身を守る最強の防御手段なのです。

そのため世間の批判や要求が強まるほど、公務員の官僚主義的な振る舞いが目につくようになります。

かつて改革派の首長によって職員の仕事ぶりや日常的な行動に対する管理が厳しくなった自治体で、住民の口からつぎのような声が聞かれました。

「窓口へ申請に行ったとき、以前なら少々記載ミスがあっても修正すれば受け付けてくれたが、いまはちょっとしたミスでも受け付けてもらえなくなった」

「以前は休日のボランティアに市職員が大勢参加していたが、最近は姿を見なくなった」。

また役所内では、こなすべき仕事が終わっていなくても、権利を主張して年次有給休暇をめいっぱい取得する職員が増えたという声も耳にします。

ルールや建前を前面に出してサービスを控えるのです。 これは狭い意味での公務職場に特有の現象ではなく、個人の倫理観や良心に依存するような仕事ではどこにも起こりうるリスクです。

ただ組織論や行政学を少しでも学んだ人たちなら、ここでいう官僚主義と本来の官僚制との間に大きなギャップを感じるのではないでしょうか。

M・ウェーバーによれば、官僚制は支配の三類型の一つである「合法的支配」を行うためのシステムで3。つまりルールに基づいて公正で合理的な職務の執行を行う制度であるはずです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村