氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

「忙しいフリ」が評価される資本主義社会

高収入で社会的承認を得ている人々の仕事が、実は穴を掘っては埋めるような無意味な仕事だった……?   

彼らは自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖しています。

人類学者のデヴィッド・グレーバーが論じた「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」は、日本でも大きな反響を呼びました。  

「タスク指向」と「時間指向」  グレーバーは、イギリスの歴史家E・P・トムスンの論文「時間、労働規律、産業資本主義」を参照しています。

この論文は、たとえばミシェル・フーコーの『監獄の誕生』を筆頭にそれ以降の研究に多大なる影響を与えました。  

そこでトムスンは、ヨーロッパにおける時計の発明と浸透、そしてこの技術的変化と並行しながら起きていたモラルの変化──商人たちのなかに起きていた時間を有効に使わなければならないという変化──が、いかに18世紀の産業革命以降の動きのなかに組織化され、産業資本主義や近代国家の形成を可能にしたかを、説得力あるかたちで論じています。

より詳細にいうと、中世後期以来の時計の発明と進化、同時期の商人たちの活動の活発化にともなう「時は金なり」に集約されるモラルの発展、そして産業革命以降の産業資本主義の展開と労働者の規律といった契機が絡み合って、ひとつの社会のかたちを形成するその過程を歴史学的に分析してみせました。  

かれはこうした資本主義的モラルの浸透以前の仕事のありようを「タスク指向」と表現しています。

その特徴は、  

(1)時間労働よりも人間的にわかりやすい。農民や労働者は、必要性をみてとりながら活動する。  

(2)タスク指向が一般的な共同体では「仕事」と「生活」のあいだの境界線がほとんどない。社会的交流と労働は混ざり合っており、労働日は仕事に応じて長くなったり短くなったりする。  

(3)時計で計られた労働に慣れている人間にとって、このような労働態度はむだが多く、緊張に欠けているように映る。  

トムスンはこういっています(グレーバーも引用している箇所です)。 ---------- 人々がみずから労働生活を統制している場所であればどこでも、労働のパターンは激しい労働と怠惰とが交互にくり返されるというものだった(このパターンは現在でも、アーティスト、作家、小規模農家、そしておそらく学生もふくむ、一部の自営業者に残っており、それが「本来的な」人間の労働のリズムではないのかという問いを喚起してくれる)。

言い伝えによれば、月曜日と火曜日には、織機はゆっくりとした速度で「時間はたーっぷり、時間はたーっぷり(Plen-ty of Time)」と声を上げる。

だが木曜日と金曜日には「一日中、カタカタ、カタカタ(A day t’lat, A day t’lat)」と声を上げる[強調引用者] ----------  それが「ナチュラル」な人間の労働のリズムではないか、とトムスンはいっていますが、たしかに、人類学の観察はこの推測を裏づけています。

人類はたいてい、ほうっておくならば、このように周期的な仕事の形態をとるわけです。  

しかし『ブルシット・ジョブ』であげられた証言をみればわかるように、実際には、たとえそのほとんどがBSJであっても、たとえば週に1度とか、月に2、3度は必要なときがあるわけです。  

基本的に待機しておくことが重要である仕事は、そもそも周期的形態をとるはずです。

そのような現実的な仕事のパターンに、「時間指向」(タスク指向に対立する近代的仕事を表現する概念です)の仕事の形態を押しつけようとするところに、ブルシット化の圧力が押し寄せてくるわけです。  

そして「時間指向」の仕事のパターンの文脈には、時計によって計測された抽象的時間の浸透と、それを媒介とする労働者の身体や生活の規律があったわけです。  

われわれの社会は、必要なときにガーッとやってそうじゃないときにはゆるくしているといった労働形態をゆるさない、仕事の性格おかまいなしに時間でいわば抽象的に区切る、そういう強制がはたらいています。  

先ほどのトムスンの言葉にもあるように、「みずから労働生活を統制している場所であればどこでも、労働のパターンは激しい労働と怠惰とが交互にくり返される」。  

ということは、逆にいうと、みずから労働生活を統制していない場所に、このような時間指向の労働形態があらわれるのです。ここは大事なので、少しふれておきたいとおもいます。  

みずから労働生活を統制する、ということは、いささかむずかしい専門用語では、「労働過程のイニシアチヴを直接生産者が握っている」と表現されたりもします。  

資本主義以前の労働過程は、たいてい直接生産者が握っていました。これは封建制においても変わりません。

監視も管理もきつくないですし、画一化された生産方法が上から指定されていることもない。

だから、働く人たちは、政治的にはどれほど従属していても、働く現場においては、みずからの才覚と裁量を発揮できる余地が多かれ少なかれあったのです。  

だから、日本でもヨーロッパでも、中世末期には、農民の余暇時間が大幅に拡張していたのですし、産業資本主義への移行期にあたる19世紀には、2つの慣習──タスク指向と時間指向──が激しい衝突をみせたのです。

ヨーロッパには19世紀前半には労働者のあいだに「聖月曜日」という習慣もありました。  

労働者は仕事の終わった土曜から飲みはじめ、月曜も飲みつづけ、勝手に仕事を休んでしまうのです。  

そればかりか、19世紀後半になってもアメリカにおいてすら、労働者はじぶんの休みたいときに休んで、じぶんの帰りたいときに帰るといった経営者の嘆きがたくさん残されています。  

労働組合運動も、20世紀はじめまではこうした感覚の延長で、自由時間の増大をめざしていました。

賃労働のくびきから解放されて、じぶんのイニシアチヴのとれる時間を求めていたのです。  

たとえば、わたしたちのまわりでもよく耳にしないでしょうか。サラリーマンをやめてラーメン屋をやりたいとか、喫茶店をやりたいとか。  

まわりはもちろん、止めます。そんなにかんたんなものではない、いまより働く時間も長くなるし、不安定になるし、収入も減る、と。  

ラーメン屋をやりたいと口にする人の本気度もさまざまでしょうが、そういいたくなる気持ちは多くの人々がもっています。他人にいわれるまでもなく、そのようなリスクもデメリットも、たいていの人はわかっています。  

しかし、それでも自営でいたいという気持ちのうちには、労働過程のイニシアチヴはじぶんが握りたいという願望がひそんでいるのです。  

つまり「タスク指向」を「時間指向」が制圧するさいの歴史的な葛藤は、ここにもつらぬかれているわけです。  

少なくとも時間指向の仕事のあり方がどこか人間にムリを生じさせるものだということです。  

これがおそらく賃労働制と呼ばれるものと関係していることは、みなさんもなんとなくおわかりでしょう。

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