氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

転職できない年齢になるまで飼い殺される日本のサラリーマン

日本の正規雇用労働者は、「同期」という同年代の横並びの幹部候補生が集まって、「査定」という形で企業から評価の良し悪しをずっと比較され続けます。

若いうちは同年代の昇進昇格はあまり差をつけないように進んでいきます。

その後、同期同士の少しの昇進の差を、当人にとって大きく実感させる、競争的な状況を作り出します。

同期という集団は、未経験入社から苦楽をともにする「仲間」であるとともに、「競争相手」です。このことは、画一的な卒業年次・新卒一括採用、「仕事」に紐付かない職能資格制度という日本独特の制度の組み合わせだからこそ成り立つものです。

 

 

こうした「平等主義・競争主義」が支配する内部昇進レースは、原則的には強制参加です。介護、育児、病気などの「特別な事情がない限り」参加するのが当たり前だと思われています。

「自分は出世なんてどうでもいい」と言いつつも、走り始めると、多くの若手がこうした構造に飲まれていきます。

平等主義的な面を持っているがゆえに、そこから「降りる」ということは、本人の「意思」や個別の「選択」として理解されます。

出世する人はいつか絞られ、それぞれのキャリア・アップは停滞を迎えます。専門用語では「キャリア・プラトー(高原)」と呼ばれるキャリアの踊り場です。

平均で42.5歳を境目にして、「出世したい」と「出世したいと思わない」の割合が逆転します。「出世したいと思わない」の比率は、逆転して以降はひたすら右肩上がりで伸びています。

出世意欲がなくなってくると、すぐに「引退モード」が来るのが日本の正規雇用の就業意識です。これは出世以外の「代替物のなさ」を物語っています。

国際比較した定量調査によれば、入社後に個々人の「昇進の差」が出始めるタイミングは、ドイツ企業で入社後平均3.7年、アメリカ企業が3.4年、日本企業は7.9年程度です。

その後、昇進の見込みがない人が5割に達する時期は、ドイツ企業がおよそ11.5年、アメリカ企業が9.1年、日本企業は22.3年です。

日本企業で働き始め、ようやく昇進に差が付き始めるころには、アメリカ企業ではそろそろ過半数が昇進の限界を迎えるのです。つまり、日本における昇進の「頭打ち」の平均42.5歳という数字は、世界的水準で言えば、あまりにも「遅い」のです。

 

 

逆に言えば、それまでの長い間、組織内出世という可能性を広く与え続けるのが日本企業の人事管理です。

転職市場の35歳限界説とは、会社員は35歳を超えるとなかなか転職が難しくなる、企業から採用されなくなるという意味です。

35歳を超えると、5歳分歳をとるごとに出身大学偏差値が10低下することと同程度の採用抑制効果が見られます。学校や塾などで頑張った分の教育投資効果がまるごと失われています。

その他にも、転職回数が多いほど、無職期間が長くなるほど、採用費が高くなるほど、採用されにくくなりますが、それらの効果とは独立して、年齢という要素だけで大きく人は採用されにくくなります。

「35歳限界説」はかなり明確に、広く日本の転職市場に根強く残っていそうです。

最初のころは「全員」が競争しているので、その中で勝つ見込みがあることが動機づけやパフォーマンスを向上させますが、40歳をすぎるころには、まだ出世の見込みが残っている、先頭集団だけの競争になります。

しかし、35歳神話が根強く残っているので、そのころにはすでに転職市場では価値がガクンと下がってしまっています。

不満だけを溜めて外にでない中高年層が大量に発生するのは、この長すぎる出世競争が終わるころにはすでに「簡単には外にでられない」飼い殺しの状況になっているためです。しかもその動機づけ競争を主導しているのは企業側です。

その状態の中高年にいきなり「外にでることも考えて」と告げるだけでは済まされないでしょう。

日本では、若手にとっては、大企業から中堅企業まで未経験者でも就職できる間口が大きく開いていることで、学校卒業と入社が同時に起こる「間断なき就職」が実現しています。

勤務地・部署は希望こそ出せますが、入社後に広範囲に配置・職務異動があるために、キャリアを自分で選ぶ権利が半分剥奪されています。

 

 

逆に言えば、新卒時に配属希望が通っている従業員は、自律的なキャリア意識が高くなっていることがわかっています。

実際にどこまで異動するかどうかは個別性が高いものの、異動主導権が企業にある限り、「キャリアの先が見えない」という状況が長く続きます。

専門性を磨きたいと思っても、2~3年後にはその職務についているかわからない状態では特定の職業への教育コストを投じる動機が生まれにくくなります。

また、社内昇進レースにおいては、「同期」という疑似共同体を作りながら切磋琢磨し、小さな昇進差を大きく捉えながらどんぐりの背比べを続けていきます。

そこにおいてはオフィスに長く残り、長時間労働しているその姿が上司にとって部下の意欲や「頑張っている」ことのシンボルになっています。

中高年の「働かない」問題は、こうした職業生活のスタートから規定され、中高年になるまでにその働き方を20年近く続けてきたことによる、「代替なきモチベーションの欠如」なのです。

モチベーションのエンジンが組織内出世に偏ってきたことによる代替物のなさのほうにあります。

窓際で暇そうにしている「個人の姿」や現在の「心理」の問題を遥かに超えたところにあるのが「働かない」問題の本質です。

「目に見えている景色」から離れられない心理還元主義的発想では太刀打ちできませんし、社内の中高年を「変わり者」などと皮肉に眺めている若者も、この真因が変わらない限り、同じような道を歩むことになります。

「働かないおじさん」問題の本当の問題点は、この人材マネジメントが変わらない限り繰り返されてしまう「組織内再生産」の構造にあります。

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