加速化するデジタル・テクノロジー革新とグローバル化の中で、「本心では多様化に反対で、変わりたくない、変えてはいけないと変化に抗う国家・政府」と「生き残るためには急速に変わらざるをえないことを理解し、価値を創出するための多様化組織への痛みを伴う変身を始める合理的な企業」の間に、「リスク・テイクの判断を迫られ、変わらなければいけないと思いつつ、頭と体が動かない・動かしたくない個人」が存在しています。
それが、いまの日本の現実です。 この構図の中でパワー(実質的支配力と権威)は、国家から企業と個人にシフトしています。このパワーシフトの中で、グローバル社会でも生き残れる「最新」の日本人=「日本人3.0」になるための議論を展開していきたいと思います。
「最新の日本人」になれる人の特徴1 以下、グローバル社会で生き残れる「『最新』の日本人になれる人、なれない人」の差(違い)について見ていきましょう。
わかりやすいように対比形式で記載します。前者が、「『最新』の日本人になれる人」であり、後者が「『最新』の日本人になれない人」です。
●「国を積極的に必要としない」と「国を積極的に必要とする」の差
● 国家に対し「参加意識か」と「帰属意識か」の差
●「判断して行動する」と「論じるだけ」の差
●「リテラシー(知的武装)を高める」と「教養(蘊蓄を語る)にこだわる」の差
●「地雷原を走破する」と「地雷原を避ける」の差
●「変化を機会と見る」と「変化を危険と見る」の差
●「危機こそ自己変革の好機と思う」と「危機は怖いので見たくない」の差
●「安全性が大事か」と「安心感が大事か」の差
●「見たことのない海外に行きたい」と「知らない海外には行きたくない」の差
●「競争は歓迎」と「競争は避けたい」の差
●「願いより夢が大事」と「夢より願いが大事」の差
●「トップを伸ばすのが先」と「底辺を引き上げるのが先」の差
● 社会と政治の慣性に「流されない意志を持っている」と「気づかず流されている」の差 ●「あくまで個人で見るか」と「平均とカテゴリーで見るか」の差
●「大きいこととただ新しいこと」を「重要視しないか」と「重要視するか」の差
●「一億総何々」という表現に対して「違和感あり(おかしい)」と「違和感なし(当然だ)」の差 ●「勘・経験・度胸」を「過去の遺物と思う」と「まだ意味があると思う」の差
● ラグビーワールドカップ日本代表のメンバーを見て、「日本代表として違和感がないと思う」と「日本代表とは、なんか違うと思う」の差
● 事なかれ主義に対して、「違和感あり(なんか変だ)」と「違和感なし(そりゃそうだ)」の差 ●「自分の意見を言う、間違いは間違いと言う、衝突も辞さない」と「意見しない、刃向かわない、ぶつからない」の差
●「生き残るのは個人と考える」と「生き残るのは国と考える」の差
● 自分は「マイノリティで問題がない(多様化の行きつくところを知っている)」と「マジョリティであることを必要とする(多様化は嫌だ)」の差
● 日本語を母国語にするかぎり日本人は日本人であるが、「日本語の世界の限界を理解しようとする」と「理解(自覚)しようとしない」の差
●「常識は疑ってかかる」と「常識にはまず従う」の差
●「現実を直視して向き合う」と「根拠のない楽観主義で現実を見ない」の差
●「格律(カントの定義では各人の採用する主観的な行為の規律)を持つ」と「道徳律が普遍的であると信じて、それに従う」の差
● ストレスを感じた時に、「ストレスの原因を解決しようとするか」と「ストレスを忘れようとするか」の差
要するに「最新」の日本人になれるか、なれないかは、過去の切断をできるか、できないかの違いです。
つまり、「『最新』の日本人になれる人」とは、過去との断絶を気にしないということ です。少し難しく表現すると、いままで学んだことを意識的に否定する「脱学習」ができる人といえます。
「これじゃ、日本人じゃないだろう」という読者の方もいるかと思いますが、私の日本人の定義は「母国語が日本語であること」なので、日本語を母国語とするかぎり、「これでも、日本人」です。
簡単に言うと、社会が課す制限、いわゆる“リミッター”を外して、自分のOSのバ ージョンアップを志向する人と、しない人の違いでしょう。
ここでご紹介した「『最新』の日本人になれる人、なれない人」というのは典型的な分類であり、実際にはここまで典型的な人はかなり少ないはずです。
ここで重要になるのは、読者の皆さんが、2つのうちのどちらの分類にあるかという ことではなく、「どちらの分類を見ているか」ということだといえるでしょう。
最後に、「最新」の日本人である、「日本人3.0」になることのメリット、ならないことのデメリットについて触れておきます。
多様化は、もはや世界中でうねり(標語)のようになっているので、反対者もいます が(反対者も包摂するのが、本当の多様性です)、その流れは止めようがなく、デジタル・テクノロジー革新と相まって、社会は大きく変わってきています。
その変化の中では、これまでのやり方・常識は、機能しなくなります。つまり、これまで当然と思っていた社会の恒常性は失われていきます。
WBCで優勝した日本チームを見ればおわかりかと思いますが、これまでの高校野球から引き継がれた「先輩・後輩」という肩書による上意下達式、集団優先の体育会式のスタイルではなく、実力ある複数の個人がそれぞれの強みに応じてチームを引っ張るスタイルが機能することが示されたわけです。
そもそも、多様化は“パンドラの箱”なので、都合よく止めることはできません。そ の変化に適応するか、しないかの問題なのです。
大勢の信徒が「神殿」の周りを回るかのように、パンドラの箱の周りをぐるぐると回っている、というのがいまの日本の状況でしょう。しかしパンドラの箱は早晩開かざるをえないはずです。そうなると、日本得意のスイミー集団戦略で勝てる時代ではまったくなくなってしまいます。
「日本人3.0」は、個人起点なので、常識がつねに塗り替わる変化前提の社会で、能動的に変化に適応することで、その個人の生き残る確率は高くなります。
つまり、「日本人3.0」になることで、いまの日本を覆う将来への閉塞感を打開し、前を向いて、進めるでしょう。そして「得るもののほうが失うものよりも多い」、そう実感しながら成長できるはずです。
一方「日本人3.0」にならないと、集団起点の発想のままなので、将来への閉塞感が前提になり、将来の希望は持てないまま、それでも「みんなで明日も今日と同じ日が来る」という安心はある状態で、「得るものより失うものが多い」と感じながら生活を送ることになるでしょう。それはそれで、人生かと思います。