今年の「ユーキャン新語・流行語大賞」で、年間大賞が「ふてほど」に決まりました。一目見て意味がわからなかった人が大半だったのではないでしょうか。そして、意味を知った後もなお、違和感が拭い切れなかった人もまた多かったのではないでしょうか。
Xでは流行語大賞がトレンド入りし、同じように否定的な感想で溢れました。「ふてほど」とは、大ヒットしたTBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の略称のことだそうですが、そもそもそのような略称が巷で飛び交った形跡はありません。
事実、授賞式に登壇した主演の阿部サダヲは、「正直、『ふてほど』って自分たちで言ったことは一度もない」と発言し、会場の笑いを誘いました。
もちろん年々、国民全体に通じるような流行語というものが難しくなっており、近年スポーツ絡みのものが続いたことはそのような時流の変化によるところもあったでしょう。
けれども今回、「裏金問題」「ホワイト案件」などの言葉がトップ10にあったことを踏まえると、ここには物事の明るい面にあえて光を当てようとした意図がうかがえます。
「ふてほど」は、昭和と令和をタイムトラベルを介することでつなぎ合わせ、その文化的なギャップを笑いの種に変える挑戦的な展開が話題を呼びました。
セクハラやパワハラ、働き方改革、ジェンダー等々、過度な「ポリティカル・コレクトネス」(あらゆる差別表現をなくすこと)にかえって息苦しさ、不自由を感じている現状を軽妙に批評してみせたのです。
しかし、それ以上に本作は、昭和的な高揚感を起爆剤にしていることを忘れてはいけません。あくまでユートピアとしての昭和であって、解毒され、漂白され、美化された空中楼閣なのです。
このような空中楼閣によって隠されたのは、「裏金問題」「ホワイト案件」などに象徴される、この国の凋落と衰退でしょう。
「最近、いわゆる『闇バイト』による強盗・詐欺の報道を見ない日はありません。他者への慈しみや堅実な努力といった、日本社会の中で大切にされてきた価値観・道徳観を揺るがしかねないものであり、こうした犯罪を断じて許してはなりません」
これは11月29日の石破茂内閣総理大臣の所信表明演説における治安対策への言及です。そして、皮肉なことですが、このような恐るべき犯罪が生まれる土壌となった、「失われた30年」という中間層が崩壊して下層化していく日本社会をネグレクトし続けた与党のトップが、まるでその後始末に困惑するかのようなことを声高に叫ばなくてはならなくなっています。
裁判所に傍聴に行く機会があり、そこで特殊詐欺事件の裁判の多さに驚いた記憶があります。
受け子、出し子など下っ端で使われて逮捕された人々は、いずれも普通の若者にしか見えませんでした。
実際、法廷で彼ら、彼女たちの話に耳を傾けると、あまりにも犯罪と無縁の生活を送っていることにさらに驚きました。
また、社会的なつながりがほとんどないことにも驚きました。経済的に困窮し、身近に相談する相手もなく、すぐにお金が手に入るアルバイトを探していたら、というのがお決まりのパターンでした。
「闇バイト」に誘引される人々と非常によく似ています。
「失われた30年」の間に格差社会化と、他者との接点を示すソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の空洞化が進みました。
社会学者の橋本健二は、さまざまなデータを突き合わせ、「1980年代以降、雇用状況の悪化と非正規労働者の増加によって、格差拡大が続いてきた。 この格差拡大は、人々の生活、意識、そして心身の健康にさまざまな影響を及ぼし、階級間の格差をきわだたせてきた」と述べましたた(『アンダークラス2030 置き去りにされる「氷河期世代」』毎日新聞出版)。
つまり、『ふてほど』が舞台となった1986年という昭和の末期を最後に日本社会は下り坂に入っていったのです。
そのような社会経済的な動きと並行して、個人は複合的なカオスに直面することになりました。
社会学者のジョック・ヤングは、社会秩序を構成する2つの基本的な部分として、業績に応じて報酬が配分されるという原則、能力主義的な考え方である「分配的正義」と、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が他者に尊重されるという「承認の正義」を挙げました。
前者が侵害されることを相対的剥奪、後者が危険にさらされることを承認の不全または存在論的不安と呼んだのです。
ヤングによれば、この2つの領域はいずれも、「偶然だという感覚、つまり報酬のカオスとアイデンティティのカオスが伴っている」といいます。
労働市場の破綻や、各産業部門での働き方が運次第になっていること、加えて不動産市場や金融のような業績とは無関係に得られる報酬等々が、「報酬が業績の尺度ではなく気まぐれに配分されているという感覚をもたらす」からです。
それによって「黄金期の特徴だった標準的キャリアのようなわかりやすい比較参照点がなく、互いに嫉妬しあう個人主義が克進して足の引っぱりあいが激化する相対的剥奪感が生まれている」と主張しました。
要するに、昭和期のような年功序列による護送船団方式が消え失せてしまった一方で、公正な分配が期待される能力主義を叩き込まれてきた人々は、「でたらめな報酬」が飛び交う状況に戸惑いながら、自分もあやかりたいと願っているのです。
思えば「上級国民」というネットスラングは、一般国民の窮状を顧みず、特定の組織やエリート層が権力を私物化し、特権や利益などに与ることへの怒りがパワーワードとして結晶化したものでしが、その深層には可燃性ガスのような不公平感が充満していたのです。
2つ目の「アイデンティティのカオス」は、「承認、つまり価値や居場所が与えられているという感覚の領域」の動揺です。
常にスキルのアップデートを怠らず、多様なリスクに対応する――そのための自由な付き合い、フレキシブルな働き方と言えば聞こえはいいが、これは愛情やケアといった人間性を養うのに必要な長期的な人間関係を築きにくくします。
職場でも家庭でも個人のライフスタイルに断絶が広がり、ある組織や場所に紐づいているという感覚が薄まってゆき、承認を得ることが困難になっていくのです。
これらは、いわば平成期に産声を上げた「平成的なカオス」といえます。
「昭和的なコスモス」を食い破る形で登場し、実に多くの人々を地獄に引きずり込み、そのカオスは令和になってますます大きくなっています。
この昭和と令和に挟まった平成が「ふてほど」からショートカットされていることはもっと注目されて然るべきで、流行語大賞が他を差し置いて影響力の低下が著しいテレビ作品を採用した点についても同様です。
物価高、増税、国民負担率の上昇と暗い話題が続くなかで、「闇バイト」のような日本社会の実相を照らし出す言葉ではなく、マスメディアが創造した「昭和」と「令和」のいいとこ取りのファンタジーを拝借したのです。
「ふてほど」を選ばざるを得ない時代とは、選考委員の“古さ”もあるとはいえ、「失われた30年」とその悲惨な現実を粉飾したくなるほどに深刻な様相を呈している時代といえるでしょう。
そして、その根底にはSNSに代表される人々の関心の分断と国民国家の衰退があります。果たしてそのような粉飾は一周回って適切なのかどうか、と問わずにはいられません。