氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

貧困を放置しておいて、本当に経済成長は可能なのか?

新自由主義の強い影響力の下、「平等化」へのエスタブリッシュメント層の抵抗は本当に強いものがあります。庶民の間にも「平等自身はいいにしても、それでは経済に悪影響があるのでは?」との考え方が蔓延しています。

ただ、それをさらに根拠づけるためには、やはり「人口」という要素を各国、各社会は真剣に考えなければならない、ということになりましょう。

つまり、新自由主義で日本人口が半分になっても「経済に悪影響」と考えないのかどうか、貧困者を放置した結果、優秀なその子供たちに適切な教育が施されなくても「成長」が可能なのかどうかという反論です。  

特にこの後者は、たとえ貧困層が人口的に「貢献」したとしても、新時代に対応した教育を施せなければ、その意味でちゃんとした人口の再生産になっていない、との理解をも導きます。

必ず貧困者をつくり出すような社会は優秀な人材を人口的に再生産する上で決定的な障害となります。それではその社会は持続できないでしょう、という話です。  

ただし、この話に加えて私として論じておきたいことは、こうした「格差」こそが目に見えない「コスト」を本当は形成しています。  

高級ホテルですべての施設が万全であるように見えて、ひとつは部屋の引き出しに前の客のゴミが残っていたこと、もうひとつはヘアー・ドライヤーがショートをしてぶちっと切れたことです。

ささいな話ではありますが、日本のビジネス・ホテルでもしたことがありません。何倍ものお金を払った「高級ホテル」の初日にこのようなことがあって、この程度の賃金しかベッド・メーカーに払われていない、というものです。  

ヘアー・ドライヤーはベッド・メーカーの仕事のクオリティーではなく、家電企業の仕事のクオリティーでしょう。

要するに過酷な低賃金労働ではやはり仕事のクオリティーも落ちるということで、この差が比較的平等な日本との違いではないかと考えるのです。

 

この仕事はこの程度の能力でできる、と簡単に考えず、どんな仕事にもクオリティーがあるということ、ひとりひとりがその職業意識をもって、ハイ・クオリティーな仕事をする国というものの力がどこかにあるのではないか、ということです。

言い換えますと、これこそが「国のかたち」で「日本のパワーは末端職場の仕事のクオリティー」と表現されています。

末端労働者にもちゃんとした賃金が払われ、有り余る能力がつけられることによる見えない生産力の問題です。

この日本でも「新自由主義」の思潮は強まるばかりで、そういう視角からは先の「神対応」というのは「古き良き日本」の名残りでしかないようにも思えてきます。

そして、そのため、この「新自由主義」には、それからの脱却が「資本主義からの脱却」なしに果たせないほどの根深い関わりが「資本主義」との間にあることを知らされます。それには、そもそも「資本主義」そのものが社会の一方に貧困者をどうしてもつくらなければならないという本質を持っていたということが原因しています。  

たとえば、資本主義を生みだした産業革命は、「ヒト」ではなく機械設備の蓄積がより優先して求められるような社会にシステム転換していましたから、そこでは社会的総生産のうちのより多くの部分が「生産設備の拡大(蓄積)」に割かれなければならなくなりました。  

現在はこの「機械設備」にAIなどの高度な情報処理ツールが付け加わっていますが、本質は同じです。これは当然、賃金分配の抑制を必要としますので、貧困の原因となります。  

「ヒト」ではなく、「機械」が重視される社会の必要悪であって、この「必要」を担う人間集団は「資本家」となってその報酬を受けることとなります。企業家利得というものはこのことで、カルロス・ゴーンが得ていたと言われる年額25億円がその典型ということになります。  

この経済システムでは2つの社会階級が必然的に生み出されます。機械と結合して生産活動を担う労働者階級とそれを企業家として担う資本家階級ですが、後者がその「成果」に応じて利潤の分け前を受け取る一方で、前者の労働条件は低ければ低いほど投資=蓄積資金としての利潤部分の確保が容易になるのでよい、とされてしまうことになります。  

つまり、資本主義はこうしてその始まりから本質的に低賃金で働かせる労働者群を必要としており、要するに「経済格差」は最初から必要事であったということになります。資本主義でありながら平等を求めることがなぜ困難なのか、それが資本主義の本質にどう根差しているかをこのように理解してもらえればと思います。

この低賃金労働者群の労働者が自分の賃金で再生産できなくとも資本主義は一向に構いません。農村から余剰人口が供給されても、外国から供給されても一向に構いません。資本の負担なしに供給されるのであれば、むしろそのほうがありがたいくらいです。  

実際の資本主義がそのようなものに期待し続け、資本主義内部での再生産を怠ってきたのはこのためです。現在の人口減、労働力不足はこのようにして生み出されました。

 こうして人口問題の解決にはどうしても「平等社会」が不可欠であることを見ましたが、それが「資本主義」の本質と鋭く対立する以上、私たちが求める社会はもはや「資本主義」ではないということになります。

それは「共産主義」の本来の意味に通じます。  

ところで、「共産主義」という言葉は欧米起源で、それは英語ではcommunism と表現されますので、これは社会がコミューンとして形成されなければならないという考え方を表しています。

つまり、「共同」と「平等」が理念として含意されているわけで、たとえば一国の生産活動が直接的な意味で共同作業としておこなわれることが不可能である以上、「平等」がその実際的な中身であると言えましょう。

こうして「平等社会」が不可欠という時、それは「共産主義が不可欠」と言っているということになります。  

社会主義」の定義を「社会化された社会socialized society」としていますが、それとの対比で「共産主義」は「平等化された社会equalized society」と言ってもいいと考えます。

両者の概念はもちろんきわめて深い関係にはあるのですが、それらが究極において意味するところは違っている。しかし、少なくとも人口減の解消にはそのどちらもが不可欠となっていると総括されなければなりません。  

これらは一般に流布されている「社会主義」や「共産主義」の概念とは異なりますが、少なくとも私はこのように考える、ということです。

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