「いじめ」のニュースは必ずと言っていいほど毎年報道されています。
なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのでしょうか。
最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じます。
子供世界の縮図である大人の社会でもある根深いいじめです。この問題を放置することは社会全体がゆがんでいくことになります。
わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんでしょうか。
いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでもエスカレートしていきます。
いじめが、「あたりまえ」に続いているのも、学校が外界と閉ざされた空間であるからです。
社会であたりまえでないこと、つまり非常識が、学校で「あたりまえ」になります。
日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとします。
学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から、個性を潰すロボット人間といわれる「生徒らしい生徒」をつくりだそうとします。
これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこいです。
生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからです。
たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになります。
「学校らしい学校がこわされる」
「おまえが思いどおりにならないおかげで、学校の世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」
というわけです。
そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされます。
この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人ひとりの人間は重要ではありません。
人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎないのです。
多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわないのです。
その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをします。
そもそも、いじめというものはセンセイたちにバレないように行われているのです。深く掘り下げて一人一人の生徒を見ることはほぼできていないのです。
私たちはそれをよく目にし、いじめで自殺した生徒の学校の記者会見では、必ずセンセイは気づかなかった、知らなかったと言い訳ばかりです。
ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたといいます。
こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとです。
こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要があり、それが日本社会に及ぼす影響を考える必要があります。
学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要があります。
学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わります。
何があたりまえであるかも変わり、若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になります。
この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、あまりにもあたりまえのことになっているので、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみになかなか気づくことができません。
しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてきます。
市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多いのです。
たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制されます。
どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されません。
逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用します。
センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化されます。
正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができるのです。
生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にします。
こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになるのです。
そういういじめの世界で育った加害者、傍観者が大人の世界でも同じ行動に出て、さらなる被害者を産んでいるのです。
いい学校、いい会社に入ることを目的だけで学校に行っているのであればそれは人生にとって無駄な時間でしょう。
もっと選択肢を広げて、自由な生き方を模索しも良いのではないでしょうか?