氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

日本人は集団主義という常識

日本とは、いまだ謎に満ちた国で、国のかたちや制度が劇的に変わることはなく旧態依然のままで、問題も山積しています。

いま何が必要なのかは、さまざまな謎や論点を正しく捉え、当たり前だと思っている強固な常識や固定観念をときほぐし、問いなおすことです。

「なぜ」や「そもそも」からこの国や時代を見ていくことで、事態をより深く理解することができるでしょう。

そもそも日本は「集団主義」なのか?

なんとなく「こうなのではないか」という理由が頭に浮かぶかもしれません。

日本人が集団主義というのは、ルース・ベネディクト菊と刀』をはじめ数々の日本人論で書かれていることではないでしょうか。

 

 

コロナ禍のせいで、日本人は移動しなくなったのです。しかし、じつは、科学は「日本人=集団主義」を否定していますし、日本人はコロナ禍以前から移動しなくなっています。 

日本人は、集団の和を何よりも大切にするので、集団と一体化しようとするあまり、自分というものをなくしてしまっているのだと、これまで、日本人論では「日本人=集団主義」であるということが繰り返し主張されてきました。

多くの日本人がそう思うかもしれませんが、はたしてほんとうでしょうか。

じつは集団主義かどうかについては、さまざまな実験がおこなわれています。

「同調行動」の実験では、ひとりで答えれば、まず間違いっこないような簡単な課題に答えてもらいます。

しかし、じっさいには、その課題に、ひとりではなく、ほかの何人もの被験者と一緒に答えてもらいます。

じつは、その「ほかの何人もの被験者」は、みな「サクラ」なのです。

かれらは、ときどき、全員そろって、あきらかに間違った答えを言います。

そのとき、ほんとうの被験者はどう答えるか?

それを観察するのです。

もし、被験者が皆に合わせて、そのあきらかに間違った答えを言ったとしたら、「集団に同調した」ということになります。

自分の判断をねじ曲げてでも集団に合わせるという「同調」は、まさしく「集団主義」の核心です。

この実験は、最初、「世界でいちばん個人主義的」といわれてきたアメリカ人を被験者にしておこなわれました。

何回、同調をしたか、その割合を示す「同調率」は、37%でした。

その後、同じ方法で八つの実験がおこなわれましたが、「同調率」の平均は25%でした。

それでは、気になる日本人の同調率は何%なのでしょうか?

ところが、日本人を被験者にして同じ方法でおこなった五つの実験をしらべてみると、「同調率」の平均は25%にすぎなかったのです。

驚いたことに、アメリカ人と変わりがありません。

 

 

日本人は、特別に集団に迎合しやすいというわけではないのです。 日本人をアメリカ人と比較した研究は、こうした同調行動の実験をはじめとして、調査研究も含めると、全部で43件見つかりました。

「常識」に反して、「日本人とアメリカ人のあいだには差がなかった」という研究がいちばん多くて24件です。

「常識」とは逆に、「アメリカ人のほうが集団主義」という研究が、なんと13件もありました。

「常識」どおり、「日本人のほうが集団主義」という研究は6件しかなかったのです。

科学的な方法で比較をしてみると、日本人は特に集団主義的ではないということなのです。

「日本人は集団主義である」となんとなく思い込んでいるのであれば、間違った常識や先入観のもとでものを考えているということです。

科学的な比較研究の結果がこう出ている以上、「日本人は集団主義」という「常識」は、間違いだったと考えざるをえません。

日本では、『移動できる者』と『できない者』の二極化が進んでいます。

かならずしも地方から出る必要がなくなるなかで、都会に向かう者は学歴や資産、あるいは自分自身に対するある種無謀な自信を持った特殊な者に限られているのです。

問題は、そのせいで地方社会の風通しが悪くなっていることです。

学歴に優れ、資産を持つ『社会的な強者』だけが抜けていく地方になお留まる人びとには、これまで以上に地元の人間関係やしきたりに従順であることが求められます。

結果として、地方では『地域カースト』とでも呼べるような上下関係が目立つようになっています。

移動の機会の減少は、それまでの人間関係を変え、ちがう自分になる可能性を奪う。その結果、親の地位や子どものころからの関係がより重視される社会がつくられているのです。

間違った常識や先入観のもとで問題を思考し、答えを導き出してしまうことがあります。

そうだとしたら、時に答えを出すよりも、見えなかった・見てこなかった「日本の死角」とも言える論点や問いを掘り下げ、再考することこそが重要です。

「個性的と言われると、自分を否定された気がする」

「周囲と違うってことでしょ?どう考えてもマイナスの言葉」

「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」

「差別的に受け取られるかも」……。

どうやらいまの若者たちは「個性的」だと思われたくないらしい。

思いをストレートに口に出すと、周囲から自分だけが浮いてしまうのです。

みんなと同じでなければ安心できず、たとえプラスの方向であったとしても自分だけが目立つことは避けたいのです。

近年はそんな心性が広がっているように見受けられます。

 

 

個性的であることは、組織からの解放を求めるには好都合だが、組織への包摂を求めるには不都合です。

自分の安定した居場所が揺らぎかねないからです。

今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っています。

いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉です。

コミュニケーションや人間関係が固定的から流動的になるにつれて、若者は場面場面で付き合う相手を切り替えています。

これは上の世代からはなかなか見えてこない実態でしょう。

若者については、結婚しなくなっていることも興味深い現象でしょう。

一体なぜなのでしょうか?

少子化対策を熱心に言挙げする人々は、しばしば仕事と子育ての両立難や、若年男性の経済的困窮をとりあげて、「若者は結婚したくても、できない」というリアリティを強調してきました。

しかし、それは事態の半面でしかありません。

別の角度から、若者が結婚しにくくなっている理由を考えると、格差婚、すなわち女性が自分よりも学歴や収入など社会的地位の低い男性と結婚する傾向が少ないままだから、ではないでしょうか。

実際に日本の下降婚率が低いことも示されています。

いまや出生数80万人割れ、2070年に総人口が8700万という推計も出たばかりです。あらためて、山積する日本の論点を整理し、考える機会としたい。

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