氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

日本が“同調しなければ生きていけない社会”になっている問題

日本は同調圧力が強い社会だと言われます。

たしかに日本社会には多かれ少なかれ彼らが指摘するような、いわば無言の圧力とでもいったような雰囲気があることは、日々の生活の中でも感じられます。

少しでも一般社会と異なる言動をすると、まずは周囲から「ちょっと変わった人」あるいは「あの人変人よね」と言われます。

変わった人、変人といった表現には決してポジティブな意味はありません。

また出自や風貌などで少しでも日本スタンダードと異なる面を見せると、とたんに相手の警戒心が高まります。

今ではその数が大幅に増え、帰国子女で活躍する事例がたくさん出てきたために帰国子女は一定の市民権(一部の憧れも含め)を得ていますが、1960年代では全くの「異星人」扱いをされていました。

「日本語をしゃべれない変なやつ」として学校ではいじめられ、極力自分が外国生まれであることを隠し通してきました。

 

 

自身の出自をさらけ出し、人と異なる意見を表明できるようになったのは、独立起業して業界の中である程度知名度があがってからの人も多いはずです。

日本人は自分たちと少しでも違う(と感じる)人たちがそばにいることに、程度こそ違え一定の不安と恐怖を感じる国民だと思うからです。

しかしこれを少し違った角度から見ると、日本人は同調圧力に耐えて生きているのではなく、むしろ「同調すること」を好んでいる、つまり社会に「同期化すること」にこのうえのない安心感を抱く国民です 

大企業でサラリーマンは、突出した能力(私が持っていたかどうかは不明だが)を発揮することよりも、企業という「村社会」にいかに同調できるかがまずは求められます。

社内では同僚や同期生とは争うことはなく(実は水面下ではあるのだろうが)決してそれを表に出さないことが出世するコツです。

いたずらに職場で言い争いをしても仕方がなく、上司には忠実に、会社の命令には従順にしていることは、毎日の些細な愚痴や文句は別として、組織というゆりかごの中にしっかりと身を置く安心を自らに求めています。

このことを世の中に置き換えてみるとさらにその像は鮮明で、社会と同調、同期化するためには涙ぐましい努力が必要です。

みんなが「いいね」といった飲食店には必ず行ってみることです。飲み会のお店を予約する幹事は、まずはSNS上で、星の数が多いところを血眼になって検索します。

★の多いお店を予約さえしていれば、たとえそのお店の味がイマイチだったとしても、それほど文句を言われることがないからです。

それほどの食通がメンバーにいるわけでもないのだから無難に選択するのはSNSでの評価です「。友達との集まりや異性とのデートにおいても全く同様の行動をとることが未然に事故を防ぎます。

 

 

ましてや芸能人が通っているだとか、料理人がYouTubeで人気だなどといった特典があればもはや、その店の雰囲気やそもそもの味の好みなどといったものはどうでもよいことです。

いっしょになって「いいね」を押すだけでみんなの仲間として認知されるからです。行列ができる飲食店に自分も並ぶことで世の中の多くの人が支持していることと同じように行動していることに安心を得ているのです。

ゴールデンウィーク期間は、メディアでは空港や駅での大混雑、高速道路での大渋滞をまるで毎年のイベントでもあるかのように伝えます。

今年はとりわけコロナ禍での自粛が緩んだことも報道を元気づけましたが、考えてもみれば以前に比べて休暇も取りやすくなり、休暇のスタイルも多様化しているのになぜみんな嬉々として一番混む時期に、電車や飛行機に乗りたがり、渋滞と分かっている高速道路に無謀にも車をつっこませるのでしょうか。

マイクを向けられて「いやー、すごいですね。もう疲れちゃいました」などと笑顔で答えるさまは風物詩といえばそれまでですが、これはもうわざわざこの大変な事態をみんなで楽しんでいるとしか言いようのない光景にも見えます。

国民全員が固唾をのんだとされるWBCワールドベースボールクラシック)。大谷選手の活躍は野球をよく観る私から見てもすばらしいプレーでした。

だが、一度大谷選手が素晴らしいとなると、日本人として全員が彼を讃えあい、その後の一挙手一投足や個人としての性格や態度にももろ手を挙げて賛辞を送る姿はやや異様にも映ります。

これもみんなの話題についていきたい、みんなと一緒に喜ぶことが是という、同調することをこよなく愛する日本人の特徴がよく出ています。

サッカーワールドカップで日本人観客がごみを拾い集めていたという報道が出た瞬間に、日本人であればごみをすべて掃除して帰ることにこの上ない喜びを感じるようになります。

これもその行為はもちろん賞賛されるものではあるが、日本人全員がこのような美しい公共心があるわけでもありません。

若い人を中心に倍速でドラマや映画を観るのも巷でいわれているようなコスパあるいはタイパのせいともいえますが、やはりみんなの話題についていくことの安心感を求めているようにも見えます。

逆にこうした同調愛が極端なバッシングにつながるのも日本社会の特徴です。

芸能人やスポーツ選手の不倫などの不祥事に対する激しいバッシングも、みんながディスると嵩にかかって責め立てます。

それもみんなが「ひどいね」となると自分もついでに「ひどいね」を押すことによって存在価値を保つのにも似ています。

芸能人やスポーツ選手が何も聖人君子であるはずもないが、こうした不祥事を知るとむらむらと正義感が沸き起こり、社会から抹殺しようとするのは、日本では特に顕著です。

 

 

大谷選手の対極にあるのが藤浪選手で、同じように大リーグに挑戦する姿は、結果が出ていない現状とはいえ、誰からも批判される対象ではないはずです。

結果はプロである以上彼が背負えばよい話であり、「ちきしょう、失敗した」(と思うかどうかは別として)と言えるのは彼を採用した球団側の話でしょう。

彼が何か悪いことをしたわけでももちろんないはずで、彼のことを個人的に知っているわけでもないのに、「性格が悪い」だの「コーチの言うことを聞かないからだ」などと知りもしないこと(誰かがネット上でつぶやいたこと)までネット上で言葉を吐き散らかすのは、みんながディスっていることに対して自分も一枚加わることで安心を得ているのです。

このようにみてくると、どうも日本社会は海の中の世界でいえば、小魚がもっと大きな魚からの襲撃からひたすら身を守るために群れを作って泳いでいる姿に重なります。

どこに向かって泳いでいくかについては多くの小魚は気づいてはいません。

だが群れの動くほうへひたすら集団から遅れないようについていくことに安心・安全を重ね合わせているのです。

日本にリーダー像が見えなくなって久しいのは小魚の群れ化の象徴なのでしょう。

失われた30年の間に、方向性を見失った日本人は身を寄せ合って生きています。

だから泳ぐ方向から逸脱してはならないし、「逸脱しようよ」などと言い出そうものなら群れから仲間外れにされるのです。

小魚それぞれが物事を判断したり、考えたりしては群れが保てないのだ。以前は群れを逸脱するどころか、餌(プランクトン)が豊富な新しい環境の海を見つけ、そこに群れを導く魚たちがいたのでしょうが、日本を率いる政治家も企業も少なくなってしまっているのが今の日本社会です。

そんな社会での同調は、何も圧力などではない、そうせざるを得ず、またそうすることが安心安全なのだとひたすら信じる姿なのかもしれません。

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