ちょうど100年前の1920年代は、第一次世界大戦の余波で欧州諸国が苦しむ中、米国が繁栄を享受して株式バブルへと突き進んだ時代でした。
そしてバブルが崩壊した後の1930年代は、大恐慌と戦争に象徴される、世界史上最悪の悲劇的な時代となりました。
後世から振り返ってみると、大小様々な困難は一つの大きな危機を形作るパーツであり、危機はどんどん拡大して、経済・金融から政治・軍事に至る複合危機となって、ついに世界は第二次世界大戦へと突入します。
その意味で、第一の危機は、放置されて失敗に終わった危機でした。第二次世界大戦後、現在に至るまで、このような失敗を繰り返さないことが、国際社会の共通認識となっています。
国際金融の観点から見ると、危機の原因は、大きく以下の三つにまとめられます。
(1)国際金融システムを支える制度が硬直的だった
(2)米国から欧州に向かう資金の流れが逆流した
(3)各国が自国第一主義に立って、国際的リーダーが不在だった
「金本位制」とは何だったのか 〔PHOTO〕gettyimages まず、当時の国際金融制度の基盤であった金本位制の仕組みを見ていきましょう。 19世紀の金本位制は、金貨を発行・流通させる代わりに紙幣(兌換紙幣と呼ばれます)を発行し、その紙幣と金との交換を約束するものです。
紙幣を保有するすべての人が金との交換を求めるわけではないので、紙幣の発行量は必ずしも金の保有量と完全に一致しなくてもよいのですが、例えば米国では発行紙幣量の最低40%をカバーする量の金の保有が法律で義務付けられていました。
従って、個々の国の通貨発行量は金の保有量の増減に影響され、究極的には、世界中の金の産出量の増加と、世界全体の通貨発行量の増加が連動することになります。
金本位制下では通貨発行量が無規律に拡大することはないので、ハイパーインフレーション等は起こりにくい反面、成長の可能性がある分野に十分な通貨が供給されるとは限らないため、成長力が抑制される側面があります。
金本位制を採る国の間では、金を媒介にして為替レートが固定されています。例えば、1ポンドは純金113グレーン(1グレーン=1/480トロイオンス=約64.8ミリグラム)、1ドルは23.22グレーンと定義されていたので、為替レートは1ポンド=4.86ドルとなります。
事実上、金本位制は主要国間に単一通貨があるのと同じため、基本的に為替リスクは極小化され、国境を越えた貿易や投資が促進されました。
実際、第一次世界大戦前夜の1914年時点で、貿易が世界経済全体に占める割合は21%であり、ブロック経済化が進んだ第二次世界大戦前夜(1938年)の9%に比べると、いかに国同士の相互依存が進んでいたか分かります。
もちろん、そのように相互依存の進んだ国家間でも戦争が起こったことも事実です。 金本位制の理論では貿易収支の不均衡は自動的に調整されると考えられました。むしろ、赤字国における恐慌や倒産・失業、それによる労働者の惨状は、輸出競争力を回復するために必要かつ望ましいプロセスである、というのがその時代の常識であったと言えます。
英国では1918年の改革まで男性の一部とすべての女性に選挙権がありませんでしたので、弱い立場の人々の声が政治に十分反映されなかったことも、こうした非人間的なプロセスが維持される一因となったのかもしれません。
金は、国家にとって最後の決済手段ですから、危機時に軽々と手放すわけにはいきません。第一次世界大戦勃発とともに、各国が金の流出を禁止し、金本位制を停止したのは当然です。
では、「総力戦」を経て国民全体の国家への貢献を重視する風潮となった戦後に、硬直的で非人間的な金本位制ではなく、新しいシステムを作っていこうという気運は盛り上がったのでしょうか? 残念ながら、そうではありませんでした。終戦とともに、各国は金本位制への復帰を考え始めます。
当時の感覚では、金本位制が常態であって、戦時に一時的に停止したのだから、終戦後はまた常態に戻るのが当たり前ということだったのだと思います。
しかし、多くの国では戦争中にインフレが進んでおり、通貨の実質的価値は戦前から相当目減りしていますから、問題は戻り方です。 英国を例にとると、当時の正統派の議論は、英国の威信にかけて旧平価(以前の金価格。
実質的には、ポンドの為替レートを示す)で金本位制に復帰すべきであり、そのためにインフレ退治が不可欠だから、健全な金融政策(引き締め)を採って国内不況を甘受し物価を引き下げるべきだ、というものでした。
ボールドウィン内閣の蔵相チャーチルが、この政策を推進しました。インフレで地代収入や投資収益が実質的に目減りした貴族・富裕階級の利益を図る意図もあったのかもしれません。
一方、新進気鋭の経済学者ケインズは、現状の実力相応にポンドを切り下げ、戦前よりもポンド安の形で金本位制に復帰すべきだと主張します。 特に米ドルとの関係を見ると、米国のインフレ率の方が英国よりも低かった(すなわち、ポンドの実質的価値が対ドルで目減りしていた)ので、ケインズは、10%程度低い金価格(すなわちポンドの10%切り下げ)で金本位制に復帰すべきだと論じました。
正統派の主張するような金融引き締め政策で一般的物価水準を10%程度引き下げるとすると、それは失業の増加をもたらすので社会正義に反する、とも主張しました。
ケインズの反対にもかかわらず、1925年に英国は旧平価で金本位制に復帰し、案の定ポンド高からくる競争力の低下と為替レート維持のための高金利に苦しむことになります。 各国でも、金本位制復帰後は固定為替レートの維持が金融政策の大目標となりますので、国内経済の動向にかかわらず、厳しい引き締めが行われることも珍しくありませんでした。
大恐慌の影響で失業率が15%程度まで上昇し、欧州大陸の銀行危機によって金が流出した1931年、英国はついに金本位制を離脱します。
同様に、米国はルーズベルト大統領就任直後の1933年3月に金本位制を停止し、1928年に戦前よりフラン安のレートで金本位制に復帰したフランスも1936年には離脱しました。 なお、日本は1930年に旧平価で金本位制に復帰(いわゆる金解禁)しましたが、大恐慌の嵐の中で窓を開けたようなものであり、翌1931年に金本位制を再停止しました。
各国では金本位制からの離脱に応じて、ようやくデフレーションが終息し、物価が上昇していきます。 金本位制は硬直的な制度ですから、平時における安定的な経済環境には適しているかもしれませんが、ショックに対して柔軟に対応することはできませんでした。
戦後復興や、大きなバブルとその崩壊という経済の激動を、金本位制という制約の中に押し込もうとしても無理な相談でした。
各国は、戦前の常態に戻ろうとして、国民に多大の犠牲を強制したのみならず、かえって経済基盤に自らダメージを与え、それをリカバーすべく自国の利益を優先する利己的行動に陥って、国際金融システムの崩壊に加担していきました。