氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

就職氷河期で「バイト先の塾に就職した男」が見た地獄

1971~1974年に生まれ、現在、働き盛り真っただ中の49~53歳の「団塊ジュニア世代」。その数800万人、現役世代の中で人口ボリュームとして突出した層が今、大きな「岐路」に立たされています。

当時はあまり一般的ではなかった「第二新卒」の壁に苦しめられたものの、老舗のレジャー産業企業で幹部に上り詰めた49歳男性のケースを取り上げます。

いま苦境にいる同世代の人たちも、諦めずに頑張れば必ず再起できるはずです。私のような凡人でもできたので、前を向いてゆきたいということをお伝えしたいんです。

埼玉県内のカフェで筆者を迎えてくれたAさん(49歳)は、開口一番こう語りだしました。物腰が柔らかく、ソフトな物言い。接客業界で積み重ねた経験を踏まえながら、およそ四半世紀前の苦しみを語ってくれました。  

「年齢的には、浪人生と同じでしたので、会社では“浪人経験のある新卒”くらいの扱いをされるとばかり思っていました。ところが、そんなことはありませんでした。当時の日本社会は、新卒至上主義だったからです。新卒で躓くと、こんなにも厳しくなるのかと思い知らされました。

吉岡さんが就職したのは、大手学習塾。都内にある中堅私立大学1年のときから、アルバイト講師として週5日教壇に立ち、中学生に英語と社会を教えました。正社員講師と同じくらい、多くの生徒を志望校に送り込んだという自負がありました。

教え続けるうち、生徒たちが物事の本質をつかみかけた瞬間に見せる目の輝きにとりつかれた。志望校合格に至った生徒の親からも指導が評価され、大いに感謝されました。

一応、公務員を志望していましたが、就職活動をしていた大学4年の1996年は、氷河期が始まりかけており、就職難でした。地元市役所の採用試験にも、東大生や旧帝国大出身者が大量に押し寄せてきました。

倍率は数十倍にも上り、当然ながら、不合格です。でも、生徒が成長していく様子に魅せられ、最後は塾に就職すればいいと安易に考えていました。

塾側に相談すると、大歓迎され、正社員で就職しました。ところが、すぐに行き詰まったのです。バイトと正社員では、働く環境がまったく異なっていたのです。

時給2000円のバイト時代は、多い月で20万円以上稼いでいました。鉄道好きなため、全国各地を旅行しました。

割烹に出入りし、回転寿司ではなく、カウンターのある寿司屋を好む大学生でした。あくまでも、大学生バイトは、塾にとって大事な「ゲスト」のようでした。  

それが、正社員になると一変し、午前10~11時ごろに起床、昼過ぎに出勤した後、午後11時まで勤務。深夜に夕飯を取り、就寝するのは連日午前3~4時でした。

生活リズムは完全に夜型となり、休みは月に5日あれば、よいほう。生徒であふれる夏期・冬期の講習時は、朝から夜まで1日12コマもの授業を任されました。深夜の食事にストレスも加わり、あっという間に体重は5キロほど増え、身体が悲鳴を上げ始めていました。  

この仕事はやりがい搾取そのもので、この先もそのまま働き続けさせられる将来像しか浮かばなくなっていました。先輩たちは、ほぼ全員が20代で退職するということもあり、1、2年で離職する人も多数いました。私もちょうど1年間働き、3月末で辞めました

新卒で入った会社を3年未満で辞めて、再就職を目指す人たちを指す言葉が、第二新卒です。厚生労働省が毎年発表する「新規学卒就職の離職状況」によれば、2020年3月に卒業した新規学卒就職者のうち、3年以内に離職した大卒者は32.3%。1995年3月の大卒者で3割を超えて以来、リーマン・ショック直後に卒業した人たちが28.8%と落ち込んだのを除くと、軒並み3割を超えています。

この数字に関しては、団塊ジュニア世代もZ世代も変わっていません。

他方、人材の流動化が進む今でこそ、第二新卒採用を導入する企業は目立つものの、Aさんが第二新卒の就職に臨んだ1998年は、状況が大きく異なっていました。新卒の就職ですら困難な時期であり、そんな状況下で、第二新卒に目を向ける企業は数が限られていました。  Aさんの友人・知人の中には、就職に失敗し、非正規の派遣社員にならざるを得なかった人も少なからずいました。

Aさんは「当時は、第二新卒という概念が浸透していませんでした。たった1年間の塾講師経験では、採用担当者の目に留まりにくく、とても苦労しました」と厳しい就職戦線を振り返ります。

27社を受け、何とか4社から内定を得たものの、採用が決まったのは11月のことでした。3月末で塾を辞めてから、半年以上にわたった第二新卒としての就職活動は「社会から取り残されている不安に押しつぶされ、何度もくじけそうになりました。  

そんな状況を支えたのは、大卒2年目で挫折するわけにはいかないという覚悟と、「絶対に諦めない。最大の敵は自分」との強い意志だったといいます。  

自分が塾講師として、子どもたちに偉そうに『絶対に諦めるな。最大の敵は自分なんだぞ』などと情緒的に語ってきた以上、就職に失敗してやさぐれた姿を見せたくなかったんです。仮に、そんなふうになってしまった自分を見てしまったら、生徒はがっかりするだろうな、などと想像していました」

かろうじて滑り込んだのは、東証1部上場(当時)の化学メーカーで、配属されたのは経理部門でした。まったくの門外漢だったため、とにかく必死に食らいつきました。簿記はもちろんのこと、エクセルすら使ったことがない「新人」が囲まれた職場環境は決して快適ではなかったですが、雑用でも何でも積極的にこなすことで、次第に信頼が得られるようになりました。  

一方で、社会人歴は塾講師経験の1年にとどまるAさんに対し、当時はまだ言葉として認識されていなかったパワハラ的な言動を繰り返した上司や先輩もいて、やるせない日々でもありました。  

慣れない経理職に就いてから2年目のある日。「経理をやっていれば、どんな企業でも潰しがきくのではないか」。ふと、経理の仕事が持つ応用性や普遍性に気付きます。以後、勤務後に専門学校に通い、27歳で日商簿記検定2級を取得。3年目になると、周囲から認められる存在になりました。4年目には、自信と貫禄を持って働けるまでになったのです。  

ところが経理スペシャリストとして、一段と成長を図りたいと思っていた矢先、想定外の事態に陥ります。会社の玉突き人事のあおりで、総務、人事、経営企画と、畑違いの部署への異動が続きました。

経理を続けたいとの意思は聞き入られることなく、“便利屋”として組織に組み込まれたことに納得いかなくなったAさんは、2度目の転職を決意しました。

旧知の知人からちょうど熱心に誘われたのに応じ、現在の老舗レジャー産業企業に経理職で採用されました。30歳でした。  

ものすごく、タイミングがよかったんですよ。ちょうどその頃、上場企業は四半期決算(1年を4期に分け、3カ月に一度)の開示が求められるようになりました。1年中、どこの会社も決算をしなければいけないような状況になったときに、上場企業の経理経験者で、今後のキャリア設計も望める30歳。

1974年に生まれて、ずっと苦労してきたのですが、初めて絶好のタイミングに巡り合えたと思えました。最終的には、現職を含め5社から内定を得ました。

その会社で20年間走り続け、吉岡さんは会社で社長に次ぐナンバー2のポジションにまで上り詰めた。

Aさんの胸の内に去来するのは、人手不足が加速する今の時代に、労働力をさらに流動化させていく必要性です。  

生産年齢人口がどんどん減少し、第二新卒も珍しくはなくなったとはいえ、Aさんの目には、いまだに日本では新卒至上主義が顕著に映るというます。  

とは言え、新卒一括採用が長らく続いてきた日本でも、近年の人手不足などの影響で中途採用を強化する動きが、企業規模を問わず強まっています。

時代の狭間に身を置く羽目になったAさんは、結果的に3社目で自らのキャリアを着実に積み上げ、経営層にまで上り詰めました。

今の会社で、65歳までは働き続けるつもりです。  

誰もが同じ会社で望むキャリアを構築できるわけではないし、そもそも置かれた場所で咲けるとも限りません。Aさんが指摘するように、年齢を問わずセカンドキャリア、サードキャリアを目指す人たちに対する理解、もっといえば社会的包摂が一段と求められるのではないでしょうか。 

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