氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

日本の「学歴」では世界で勝ち抜けない

高学歴化する日本社会ですが、国内の優秀層が増える一方で、大学や企業は、海外のエリート層の獲得に苦慮しています。

さらには日本の学歴そのものも、世界では通用しなくなっています。その根本的な原因には、日本が「閉ざされた市場」です。

国境や言語、日本的慣行の壁に守られた人的資本市場は、他の先進国と比べれば相対的にグローバルには閉じてきました。

大学入学市場と新卒労働市場への参入者はほとんど日本人に限られます。留学生が増えたと言っても、まだまだ欧米の大学に比べれば桁違いです。

グローバルなレベルで優秀な学生を引きつけることにも成功しているとは言えません。

 

 

しかも、多くの日本の大学では「留学生枠」が設定され、日本人の入学希望者とは別枠で入学者の選別が行われ、枠を設けない「ワールドクラス」の大学との違いです。

さらには、この国内の閉ざされた大学入学市場では、価格競争さえほとんど生じていません。

ハーバード大学やオックスフォード大学の年間授業料は300万~500万円(ただし為替の変動による)です。

競争相手と見なされる大学の授業料を見ながら「価格」が設定されています。

それに比べ、日本の私立大学が100万円前後、国公立大学はそのおよそ半分です。国公立大学間、私立大学間の価格競争はほとんど生じません。

グローバルな入学者市場から見れば、「お手頃な」価格でもそれが競争力につながるわけではありません。

これに大学の外部資金獲得市場での競争力の違いを考慮に入れれば、さらに桁違いの収入差になり、それが市場における交渉力の差につながります。

その結果、日本の大学入学市場の閉鎖性や相対的な劣位は変更が難しいものとなります。

注意してほしいのは、このような市場の閉鎖性がすでにコロナ禍以前に形成され維持されてきたことです。

この閉じた入学市場では、いわゆる受験「競争」がどれほど激しくても、入試での成功と交換されるのは、質の高い教育とは限りません。

国内でのみ通用する大学の威信や地位といったシンボリックな財が主な交換財です。

偏差値の高い大学が、イコール教育の質の高い大学とは言えないことが、その何よりの証拠です。

日本の大学の威信は、国境を越えればほとんどグローバルな交渉力を持たないことは、日本の偏差値トップ大学のグローバルランキングに表れています。

ランキングを決める基準自体が、英語圏の大学に有利にできていることも、市場での交渉力の劣位のひとつの指標です。

受験市場で競われるのは、いかに入学試験で高得点を取れるかに限定され、発揮され測定され順位づけられる能力やスキルの中身も、閉じた市場の中でのみ価値を持つものに留まります。

 

 

日本の大学入試で問われる知識や能力は、内容の点でも言語の点でも、グローバル市場では交換される価値をほとんど持ちません。

たしかに日本での卒業後の就職市場では有利に働くでしょう。

就職市場自体も海外にはほとんど閉ざされています。外国人の雇用と言っても、日本に留学した留学生から優れた人材を採用するに留まります。

海外から高度人材を引きつけることはできていません。

つまり、グローバルな労働市場にまでウィングを広げてはいないということです。

しかも日本の新卒就職市場は、初任給に大きな違いを持たず、将来の安定性と入社後の昇進=地位をめぐる(男性に優位な)競争への参入権を獲得する競争と交換の場です。

こうした「閉ざされた」市場での競争と交換の結果は、開かれた市場の理念型が示すような人的資本の価値を高める循環を生みにくいのです。

その理由は、第1に、市場への参入が閉ざされていることにあり、参入者が日本語のできるほぼ同世代の若者に限られているということです。

第2に、その副産物として、市場での交換の対象が大学や企業の「格」といった象徴財になるからです。

正規雇用との大きな格差を除き、その差は大きくありません。

新卒就職市場で勝ち抜き「正社員」になった後の内部労働市場では、競争と交換の対価は地位をめぐる昇進の機会です。

それにともなう能力発揮の機会の獲得も、年数をかけて行われ、その間、組織への忠誠や同調が求められます。

外部からの参入者が競争を脅かすことも、大きな報酬格差が生じることもほとんどありません。

時間をかけた内部昇進が成功者のメインキャリアとなるということです。

いずれも年齢主義の影響を強く受け、個人にとっての競争相手は「同期」です。社会学の準拠集団論を適用すれば、比較の対象は閉ざされた市場に参入でき、年齢的にも同質な集団ということです。

つまり国内でも年齢によって閉ざされているということです。

大企業の幹部の多くが同質的な集団となるのも、このような閉ざされた人的資本市場の結果に他ならないのです。

 

 

それは、主要な経済団体の幹部の顔ぶれを見れば明らかです。

いずれも内部昇進の結果で、同質性を高める選抜が行われた結果ですが、こうした市場では異質性は排除され、同質的な集団内での「差異」が問われることとなります。

同質的な集団内部での差異だけに、それは微小で微妙なものになります。

突出した差異は、「異質」として排除されます。

こうした仕組みは日本人には馴染んでいても、海外からの「高度人材」には通用しにくいことが、優れた海外の人材を引きつけることに失敗する一因にもなっています。

その結果、市場の閉鎖性・同質性がいっそう強まることとなります。

そこに向かうには、リスク覚悟でこのメインルートからスピンアウトするしかない。起業や、芸術・芸能・スポーツといった「プロ」の世界です。

突出した差異が問われる競争の世界です。

かつて戦後の高度成長時代には、このような閉じた市場での競争が功を奏したと言ってよいでしょう。

1ドル360円という円安もあり、当時の先進国との国際比較で見ればはるかに低賃金で、質の高い工業製品を生産することによって、製品自体のグローバル市場における競争力が優位なポジションを占めることができたからです。

比較的教育レベルの高い国民を、その人的資本に比して国際比較的に低い賃金で雇用できたことも、その時代の有利さにつながったのです。

国内での人的資本をめぐる閉じた競争も、製造業における生産性を高めることに貢献しました。グローバルな競争が、工業製品を通じて行われていた時代の恩恵です。日本の相対的優位性が、国境内部の人的資本の高さによって得られた工業化の時代です。

閉じた市場の中で発達した、「日本的経営」が日本の競争力の源となったと主張する論者もいます。

就職市場も企業内部の昇進市場も、そこで指摘された特徴に重なり、1980年代までの「戦後経済」の姿です。

しかし、日本の優位性はさまざまな要因によって喪失し、グローバル化のさらなる展開、アジア諸国のキャッチアップ、製造業から第3次産業中心の産業構造の変化や、日本の「成熟社会」化、技術革新力の枯渇、バブル経済破綻後のデフレマインドの蔓延等々です。

少なくとも、それ以前に通用していた工業製品を通じたグローバル市場での日本の優位性が損なわれるにつれ、人的資本のグローバルな市場から日本が遠ざかっていました。

そのことが、今度はマイナスの方向に働くようになり、その閉鎖性がますます目立つようになったのです。

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