氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

悪意を撒き散らすひろゆき発言

ネット掲示板2ちゃんねる(現在は5ちゃんねる)」創設者で、実業家かつコメンテーターのひろゆきが、日本の医療費が逼迫していることを理由に「『寝たきり老人の胃ろうに保険適用しません。飯が食えない老人は自費で生き残るか諦めてください』と言える政治家が必要になります。」とTwitterで述べ、物議を醸しました。

ひろゆきは近年、若年層にも人気があるといいますが、このような反人権的な発言が「正論」として世の中に受け入れられていく状況には危機感を持っています。

胃ろうの是非は経済問題ではない 口で食事をすることが難しくなってしまった人に、胃に管を通して栄養を補給する胃ろうは、しばしば論議の的となる治療方法です。

延命治療に胃ろうが用いられることにより、かえって患者や家族の苦しみを増すケースもあります。

 

 

一方で、高齢者であっても胃ろうによって再び一定の社会生活が行うことができるようになる場合や、延命治療であっても患者や家族の納得がいく看取りにつながるケースもあります。

一概にその是非は判断できません。

延命治療については患者とその家族との綿密なコミュニケーションによって決定されるべきであり、制度がそれを阻害しているなら改善するのは当然でしょう。

しかし、ひろゆきの主張に基づけば、胃ろうという選択肢は、真に考えたうえでそれを必要とする患者にではなく、「自費で生き残る」ことができる富裕層にのみ与えるべきとされています。

どんな状況でも胃ろうを行うのが正しいという思考が患者本位ではないとしても、経済状況によって治療に格差付けようとするひろゆき氏の議論も同様に患者本位ではありません。

今回のひろゆきの発言は、ネット番組での福祉国家をめぐる議論を直接のきっかけとして生じていますが、彼は2020年にも同様の発言をしており、ひろゆき氏の持論といってもよいでしょう。

医療費の逼迫を背景とした患者の切り捨て論としては、2016年、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というタイトルのブログ記事を書き、問題となって全番組を降板したことが記憶に新しいです。

また、「自己責任」論に基づき弱者を切り捨てる論としては、昨年メンタリストのDaiGoが自身のYouTube上で、「ホームレスの命はどうでもいい」と発言し、炎上した事件があります。

DaiGoの炎上については、ひろゆき氏はこの件ではDaiGo批判の立場を取っていました。

これは世論の大勢がDaiGo批判になっていたため、強い側についただけのことです。ひろゆきの本心はDaiGoそのものでしょう。

ひろゆきは沖縄の辺野古基地建設反対運動で行われている建設資材の搬入を阻止するための座り込み行動に対して、工事車両が来ないときは座り込んでないのだから、これは座り込み運動ではないという揶揄を続けています。

 

 

また、渋谷区美竹公園で起きた行政によるホームレス排除事件に対して、ひろゆきは区に抗議している人は自分の家にホームレスを泊めればいいという内容の揶揄を行いました。

ひろゆきはDaiGoのホームレス差別発言を批判していましたが、その理由はホームレスを保護することには社会的効用があるからでも、ホームレスの生存権は守られねばならないからでもなかったのです。

生存権という人権を基盤としない擁護論は危ういと懸念していましたが、まさにその危惧が当てはまってしまったかたちです。

このような、10月に投稿されたひろゆき氏の一連の発言に共通しているのは、多数派にとって目障りで、お荷物とみなされているような対象を、悪意をもって踏み付けるという意志に他なりません。

しかし、こうしたひろゆきの一連の悪意は、Twitterで多くのRTや「いいね!」を集めており、多くの人々に支持されてしまっています。

沖縄タイムス』の阿部岳記者の記事によれば、ひろゆき氏に追随して、沖縄の運動に心無い言葉を向ける人々が増えているといいます。

ひろゆきは一部が持つ悪意を巧みに誘導しているのです。

医療問題、基地問題、野宿者問題、それぞれ長い歴史・議論・運動の蓄積があります。

安易な揶揄をすれば揶揄をしたほうが馬鹿にされるのです。

ひろゆきもこうした蓄積をよく知っているわけではありません。

しかしひろゆきは、議論の上手さだけでそれを突破しているようにみえます。

人々の中には、マイノリティからの告発や、人権問題は社会全体の責任で解決すべきであるという「正論」から自由になりたい者がいます。

 

 

そのような者にとって、議論を「座り込み」の定義や胃ろうのコストといった極めて限定的な範囲に強制的に絞ったうえで、ロジック上の「正論」を振りかざし、議論に勝利し続けているかのように見える「論破王」ひろゆきは、ありがたい存在です。

なぜなら、自分たちが差別や人権、社会的弱者の問題について、何も学ぶ必要がないと勇気付けてくれるからです。

ひろゆきの尻馬に乗ることは、社会的な責任を回避するための極めて低カロリーな方法なのです。

DaiGo炎上など、あらゆる問題をフラットに、コンテンツ化してしまう「ディベート」は、生存権のような社会の譲れない価値を揺るがすことに繋がります。

ひろゆきは、基地問題や医療費問題について「問題提起」することで、「建設的」な議論をしているつもりのようですが、露悪的な論点を不誠実なやり方で提示することは、全く「建設的」な議論とは呼べません。

DaiGoのホームレス差別は世間の批判を呼び、彼は謝罪することになりました。

しかしひろゆきは10月の一連の発言に関して、どれについても謝罪をしていません。

これは極めて危険な兆候です。こうした発言が許され、支持されてしまうなら、それは社会の底が抜けてしまったということだからです。

たとえ「問題提起」だろうと許されない発言はあるのだ、ということを、もう一度確認する必要があります。

ひろゆきホリエモン勝間和代、Daigoなど数えればキリがありませんが、ユーチューブなどで好き勝手放題言っている彼らは超富裕層であり、かつ常に上から目線で弱者である庶民を見下した究極の自己責任論者です。

彼らのユーチューブチャンネルに登録して意見に賛同し、同調している信者が若者を中心にかなり多く、その影響で社会の分断を拡大させていることは将来的に憂慮すべきことです。

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