氷河期セミリタイア日記

就職氷河期世代ですが、資産運用でなんとかセミリタイアできました。残りの人生は、好きなことをしながら自由に生きていきます。

節約のつもりで「コンビニのカップ麺」買ってしまう人たち

コンビニでカップ麺を買うのは節約にあたるか否かについて、ツイッターでも、貧困問題に取り組む方が口にしたところ、激しい批判が起きて「炎上」状態となりました。

節約のため、昼食にカップヌードルを買ったところ、価格が231円で3度も金額表示を見た、という内容のツイートに対して、貧しさの現実に即していないといった主旨の批判や非難の声が相次いでいました。

「そもそもカップ麺は高級品だ」

「貧しい人はカップ麺ではなく安い袋麺を買う」

「レジ行く前に値札見るだろう」

 

 

「コンビニよりスーパーの方がカップ麺を買うにしてもいくらか安い」

「普段から節約する人からすればありえない感覚」

「貧乏人の解像度が低い」

こうした厳しい意見がずらりと並んでいました。

しかし、スーパーではなくコンビニを積極的に利用し、200円以上するカップ麺を買っている貧困層は、ごく普通に存在します。

「コンビニでカップ麺を買う貧困層」という、一見すると矛盾した消費行動をとる理由はそもそも彼らが「スーパーで特売の袋麺をまとめて買うほうが得である」ことを知らないからです。

そうした人は、スーパーとの値段を比較することなく、近くにあるコンビニを訪れて「節約のつもりで」「値札をとくに気にせず」カップ麺を購入してしまいます。

貧乏なら弁当や総菜を買うよりも自炊すれば安上がりです。

しかし、貧しい人は一部に「調理をする」という習慣が生まれ育った家庭にはなく、十分な訓練を受けていないことがあります。

また適切な材料を適切な量で買いそろえることができず、足りなかったり、使いきれず食材を腐らせてしまったりすることもよくあります。

慣れない料理に挑戦し、多大な手間と労力をかけた結果として「まずいメシ」が完成してしまうと、調理を習慣づけるモチベーションを失います。

 

 

また部屋が狭く、調理スペースや調理器具、家電製品の用意でも乏しく大きな制約を受けます。

冷凍室や野菜室のない一部屋タイプの冷蔵庫では「食材を保存する」という用途自体が失われてしまうこともあります。

そうなると結局、コンビニの弁当や総菜、そしてカップ麺などが消去法的に選ばれます。

お米を買うにしても、5kgや10kgの大袋(1000~3000円くらい)を買う方が得なのは明白です。

貧困層には数千円の「まとまったお金」を一度に支払う経済的余裕はなく、「まとまったお金を払って大きいのをひとつ買っておけば、小出しでモノを買うよりも中長期的にはお得である」というトータルコストの概念がなかったりもします。

1kgや500gの小さな米袋を買ったり、レンジで調理するレトルト米を食事ごとにいちいち買ったりして、最終的に損をしてしまうのです。

節約術を習得するのも、特売情報をキャッチするのも、料理スキルを磨くのも、中長期的な損得計算をするのも、これらはいずれも貧乏なら当たり前にやらなければならないことをしないのです。

それぞれ特別な訓練や慣習によって習得される文化に近く、そうした文化を持っていない者は、お金がないのに「無駄遣い」な選択をせざるを得ず、ますます貧困に陥っていきます。

貧困は、そこから脱するためにお得な情報や節約を習慣づける文化を学ぼうとしない「愚かさ」ゆえに生じてしまいます。

しかし、貧困がそれ以上に根深い問題であるのは、その因果の矢印を逆転させた理路もはっきり存在していることです。

 

 

愚かだから(合理的判断ができず)貧しくなるだけでなく、貧しいから(合理的判断ができず)愚かになるという機序も明確に存在して、貧困層をますます貧しくしてしまうのです。

怠惰でもなければ愚かさでもなく「貧しい生活によって生じる心理的ストレス」が人びとから経済的に合理的な判断能力を低下させ、みずから貧困のループを作ってしまいます。

「貧すれば鈍する」とは昔の人はよくいったものです。

貧困層は文字どおり経済的な余裕がないので、貧困状態にある人はたとえほんのわずかな出費でも生活が立ちいかなくなることへの不安に絶えずにさらされています。

そのような心理的ストレスの強い高リスクな状況下におかれると、人は脳内の認知的リソースのほとんどを「生活を無事にやりくりするリスクマネジメント」に割かなければならなくなります。

ほかのことを考えられなくなって、非合理的な判断に奔ってしまいます。

貧困層がしばしばスーパーでなくコンビニに行って特売でもないフルプライスのカップ麺を値札もろくに確認せず購入してしまう行動をとってしまうのは、かれらが逼迫した生活を送っていることによって脳内の認知的リソースの余裕がなくなっているからです。

低所得者が家計や生活のやりくりのことを考えると認知機能が低下してしまうことが実証されている一方、高所得者が同じことをしても認知機能は低下しないことも明らかになっています。

 

 

つまり、高所得者は賢いから高所得者であるだけではなく、高所得であるという状態そのものが認知的リソースの余裕を生み「より賢明で合理的な判断」を生活上でも安定的に維持しやすくして、大切な財産を無駄遣いから守り、所得をさらにブーストさせているということです。

貧しさそれ自体が頭をわるくし、豊かさそれ自体が頭をよくし、結果として貧困層と富裕層の経済的・文化的・認知的格差はさらに開いていきます。

貧しさにより日常生活において心理的ストレスの強い状況で生活している人は、そうしたストレスの小さな人と比べて、余暇時間を与えられると得てして享楽的で非生産的な遊びにだけ費やしてしまう傾向が強くなってしまうことも明らかになっています。

貧困層は、日常生活で断続的に味わわされる強い心理的ストレスをどうにか発散させるために、短期的に強い快楽を得られるようなギャンブルや飲酒などに没頭せざるを得なくなるのです。

貧しい人とは対照的に、高所得層はそうした生活防衛によって要求される心理的ストレスやコストが小さいため、余暇時間には読書やセミナーなどの自己研鑽あるいは美術・芸術鑑賞といった文化的・教養的活動に回すことができ、それが結果的にかれらのビジネススキルの上昇やインスピレーションの向上に貢献しています。

手持ちのカネの多寡よって生じる「生活をやりくりするしんどさ」の格差は、それ自体が「認知的格差」に直結し、貧しい人をますます貧困に絡めとられるような行動に駆り立て、富める人をますます豊かで上質な暮らしにつながる行動を促進します。

貧困それ自体が「愚かさ」の根源であること、「愚かさ」によって作り出された慣習や環境がさらに貧困を深刻化させ、深刻化した貧困がさらにその人の「愚かさ」を加速させているという負のループ構造があります。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村