日本の官民の現場では、「思考停止」に陥っていることが問題だと言われ始めています。しかし実は、思考停止と言っても何も考えていないわけではありません。
思考力というのは、本当の意味での「考える力」のことであり、思考を要する「問い」に対して向き合っていくことができる力とも言えます。
そういう意味では、思考が停止したままでも答えを得ることが可能な問いもあります。
たとえば、単に持っている知識の中から選ぶ、もしくはネットで検索して選び出すだけで答えを得ることが可能な問いです。
そのような思考停止は、日常的に仕事をしているとき、ごく自然に起こっています。定型的に単にさばくことで済ますことができる仕事の場合、思考力は特に必要とされていないので、思考停止状態であることは問題にもならないわけです。
「定型的にさばけば済む仕事」と捉え、自動的に「どうやるか」に入ってしまうのが、ひたむきな勤勉さを持った日本人です。
そのような目的や意味を考えずに、たださばこうとする態度・姿勢が思考停止です。
本来であれば、新しく仕事を始めるときには、「この仕事は定型的にさばいてもよい仕事なのか」、それとも「目的やそれがもたらす意味などをしっかりと考えることを必要とする仕事なのか」という判断がまず必要なのです。
しかし、ほとんどの場合、そうした判断はスルーされ、さばく仕事としてすべて処理されていくのが現状です。
多くの日本人は、何事をするときでも無意識のうちに置いている何らかの規範、前例踏襲主義を基に物事を処理しがちです。
「定型業務であるべきか、そうでないのか」を考え、定型業務であるという判断をした後にそうするなら、思考停止ではないのですが、考えることも判断もまったくしていないところに問題が潜んでいます。
業種にもよりますが、日本の多くの官民を問わず、無自覚に前提なるものを置いて「どうやるか」からさばき始め、枠の範囲でものごとを処理しようという、ある意味、効率的で便利な思考姿勢のことです。
枠の範囲でものごとを処理する思考姿勢は、定型業務をさばくには適した仕事の仕方です。
しかし、何か新しい価値をつくっていこうとしているときには、それでは上手くいきません。
「どうやるのか」から始めるというか、「どうやるのか」でさばこうとしていては、新たな価値は生み出せないのです。
まず大切なのは、定型業務をさばこうとしているのか、新しい価値をつくろうとしているのかを自覚的に判断する姿勢です。
こうした姿勢をまったく持たず、ただ単に定型業務をさばくことが仕事のすべてだと考えている状態を、「思考停止」と呼ばざるを得ません。
あらためてそう言われてみないとほぼ誰も意識していないのが悲しくて恐ろしい現実です。
そもそも「置かれている前提を疑わない」という日本の歴史に由来する思考姿勢は、今の日本においては社会規範ともなっています。
こうした一連の構造をほぼ誰も意識していないということが、無自覚の思考停止が日本を覆いつくしています。
ただし、前提を置いて、その枠内でものごとを処理すること自体が間違っているわけではありません。
これは定型業務をさばいたりするときには非常に効率的なやり方だからです。
問題なのは、枠を外して考えなければならない場合と、枠で処理したほうがいい場合の区別ができていない状態です。
実のところ、無意識のうちに前提にしてしまっている枠はたくさんあります。
自分の立場や役職、上司の意向や先輩が言ったこと、さまざまな取り決め、前例などが枠になってしまうからです。
非常に重要な意味を持つのが、目の前の現実を枠にしてしまう思考姿勢です。目の前の現実を枠にしてしまい、枠の範囲で現状から出発して「どうやるか」ばかりを考えていく姿勢を持ってしまうことにも大きな問題があるのです。
このように現実からの積み上げ方式で考えていくと、創造していくのに不可欠な飛躍というものが生まれにくいので、到達しやすい目標ばかりを持つことになってしまうからです。
現実を起点に考えると、「できるか、できないか」の話になりやすく、難しそうな話は、すぐに「無理」となってしまうのです。
本気で改善活動をやろうとしている現場では、改善テーマを決めるとき、「できるか、できないか」は考えないようにしているのが当たり前なのです。
「困難かどうか」は別にして、やり遂げることに意味があるテーマを見つけ出すことに意義がある、ということを意味しています。
難しいテーマをやり遂げようとしたとき、妨げている制約がたくさん見えてきます。その洗い出した制約を一つずつ見極めるのです。
「なぜ制約になっているのか」「マイナスをプラスにする逆転の発想はできないか」などといった、制約を克服する方策を多方面から考え抜くことで、飛躍を現実のものにしていこう、といった思考姿勢が必要です。
「現実は正確に把握する」ということ自体は絶対に必要なことです。
しかし、そのことと「現実を枠にしてしまわない」つまり、「現実起点でものごとを考えない」ということを混同してしまってはならないのです。