日本は、労働は苦痛を伴うからこそ意味があるという倒錯したモラルが特に根強い社会です。汗水たらして働くことが美徳化されています。
たとえ無意味で理不尽な仕事であってもその苦痛に耐えてこそ、道徳心や倫理観が養われるという考えがあります。
こうした考えは人間としての可能性を狭めていると言えます。
長時間労働と無駄な仕事により、悩まなくてもいいことに悩んでいます。
もっとやりたいことを突き詰められれば、本来はより文化的に豊かな生活を送り、人間社会の可能性も広がっていくはずです。
しかし残念ながら、そうなっていないのが現状です。50年ぐらい前(1960年代)には、ほとんど働かないで済むような世界を多くの人たちが求めはじめた時代がありました。
そして経済学者の予想した通り、客観的にも、可能性としては、その実現は遠いものではなくなっていました。
ところが、世界を支配している人々からすると、それが実現するということは、人々が、自分たちの手を逃れ、勝手気ままに世界を作り始めることにほかなりません。
そうすると、自分たちは支配する力も富も失ってしまうことになります。
そこで彼らは、あの手この手を考えます。その中の一つが、人々に長い間根付いている仕事についての考え方を活用し、新しい装いで流布させることでした。
その考え方とは、仕事はそれだけで尊い、人間は放っておくとなるべく楽してたくさんのものを得ようとするろくでもない気質を持っているというものです。
このため、額に汗して仕事をすることによって、人間は一人前の人間に仕立て上げられるということです。
こういった考えを強化させつつ、支配層にある人たちは、仕事をつくって、その富の増大分をほとんどわがものにし、以下のような考えを起こさせないように人を縛ったうえで洗脳するのです。
・二度と仕事から解放される
・自由に使える時間が増やす
・人生のほとんどの時間を生きるために誰かに従属して過ごさない
こういう価値観に洗脳されると、何かおかしいなと思っていても、仕事をするということはそれだけで大切だ、虚しかったり苦痛だったりするけれども、だからこそむしろ価値があるというふうに、人は考えてしまいます。
なにかこの世界はおかしいけれども、それがおかしいと考えることがおかしいんじゃないか、と多くの人が疑念を打ち消すことによって、この砂上の楼閣のような世界はかろうじて成り立っているのです。
実は、労働するとは、誰かが自分の時間を買ったことで、その時間内は労働をしなければならない。たとえすることがなくても、という発想は、決して普遍的なものではありません。
それどころか人類の歴史のなかでは、きわめてマイナーな、しかもごく最近生まれた「常識」であり、慣習でしかありません。
それでは、より普遍的な仕事のあり方は 、必要なときに集中的に仕事をして、それ以外は、ぶらぶらしているとか、好きなことをしているとか、寝ているといったありようです。
要するに、狩猟採集民や農民、職人、作家などは、繁忙期に集中的に働き、そうでないときには休息をとったり、繁忙期に向けた道具の手入れやこまごまとした準備をしたりして過ごすというものです。
今の仕事が嫌で嫌で仕方ないなら転職して逃げることも可能です。それは労働者として働いている人に与えられている権利です。
しかし多くの人はその権利をなぜか自分で放棄し、今の会社が全て、今の仕事が全てだと勝手に思い込んでしまっています。
確かにそんなにぽんぽんと転職するのは良いことではありません。何度も転職を繰り返すことは良しとはされず、中々転職先も見つからなくなってしまうでしょう。
ただ1度や2度の転職は特に問題もなく、むしろ条件アップすることに繋がる方もたくさんいます。
自分で勝手に逃げ道を潰さず、だめなら逃げることができるという思いがあるだけで、仕事はずっと気楽になるでしょう。